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江本孟紀が語る「野村克也の組織マネジメント」野村克也と江本孟紀『超一流』の仕事術(4/5 ページ)

» 2020年05月31日 08時00分 公開
[瀬川泰祐ITmedia]
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「野村再生工場」の真意

――「野村再生工場」という言葉もありましたが、野村監督が、選手を再生させる秘訣はどこにあったのでしょうか?

 再生にもいろいろな意味があります。全盛期よりも力は落ちているけれど、残っている力をもう一度花開かせるというケースと、あとは江夏のように「配置を変える」というケースがありますよね。

 前者の場合、楽天時代の山崎武司のように、タイミングよく的確なアドバイスを与えることによって、選手が再生するということがありました。後者の場合、江夏のように、先発からリリーフに配置転換して選手の特徴を出させるケースです。野村監督は江夏に「肘が悪いのでリリーフしか生きる道はない」と言ったようなのですが、野村監督の話を聞く限り、どうやら江夏は相当抵抗したらしいんですよ。

 南海に移籍してきた当時の江夏は、パ・リーグを下に見ていたこともありましたし。でも、結果的には野村監督の意見を受け入れた。江夏には「変わる力」があったんです。納得させる言葉を持っていた野村監督もすごいし、それを聞き入れた江夏もすごいですよ。結局、どうにもならんやつは、どうにもならんわけです。

――当時の選手たちは本当に個性派ぞろいだったようですが、そこをまとめるには監督に納得させられるだけの「言葉」が必要だということですね。

 「考えればできる」とか「相手の癖を読む」とか、言っていることは当たり前のことでも、その言葉に説得力があるかどうかですよね。言葉で選手の意識を変えられるかどうか…。

 (監督を歴任したチームそれぞれで)やり方は違っていましたが、求心力はあったんじゃないかと思います。アピールの仕方や、メッセージを出すのに長けていて、自分のスタイルを浸透させた人。時代に合わせながら。まあ阪神のときだけは合わなかったけれど、それでも「ぼやき」で、球団の人気にはつなげました。こんなにも人生で、監督業を楽しんだ人はいないのではないでしょうか。

――野村監督が亡くなられたとき、江本さんはどう思われましたか?

 野村監督は親でもないし親戚のような血縁関係でもないですけど、24歳くらいからずっと近くにいた存在でした。お互いに良く知っていて、同じ業界に長くいたなという思いもあってですね……。まあある種、人生をともに歩んだ人ですし、いろいろな思い出もあります。親が亡くなったときの感覚ではないにしろ……だから、ただの知り合いとの別れとは違う感覚ですよね。この本を出版するために19年の8月から11月にかけて何度も対談していたときは、まだそんなに亡くなるような感じではなかったので複雑でしたね。

 最期にキャンプ地も行きたかったのかなあとか思ったりしましたけどね。

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