平城京や自由が丘で「踏切除却」! 鉄道、街はどうなる?杉山淳一の「週刊鉄道経済」(2/6 ページ)

» 2021年04月02日 13時02分 公開
[杉山淳一ITmedia]

平城京は大和西大寺駅の高架化とセット

 平城京の遺跡内に近鉄奈良線の線路が通っている。「日本の歴史教科書にも登場する物件の遺跡に鉄道を敷くとはけしからん」となりそうだけど、順序が逆だ。平城京に遷都される前に近鉄が走っていたから……という冗談はさておき、近鉄の前身、大阪電気軌道が14年に大阪・奈良間を直結する線路を敷いたとき、そこは平城京の遺跡ではなく農地だった。平城京は07年に一部が発見されていたけれど、遺構全体は特定されていなかった。

平城京の遺跡内を近鉄奈良線が通っている(出典:ゲッティイメージズ)

 60年(昭和35年)に奈良国立文化財研究所は平城宮の範囲を特定し、近鉄の線路も平城宮の内側と発覚した。それでも世論も近鉄も「ああそうですか」という認識だっただろう。近鉄としては国の免許を得て建設した。そこに遺跡を損なう悪意はなかった。国が「免許を取り消すから迂回しろ」というならば費用を補償してもらいたいはずだ。しかしそこまでの真剣な討議はなかったようだ。

 78年(昭和53年)に国は「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」を示し、その中で平城宮の国定公園化と「近鉄奈良線の移設」を掲げた。大原則として「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」関連費用は国が全額負担する方針だ。ただし期限は示されず、動きがないまま歳月が過ぎた。98年に朱雀門、10年に第1次大極院殿が復元されると、それらを背景に近鉄電車が走る。この風景はかえって「歴史と近代が融合した珍しさ」で名物になった。

 平城京は710年から784年まで都だった。間に約5年間があり恭仁京となっていて、それを差し引くと74年間だ。近鉄奈良線は14年から現在まで104年間の歴史がある。もう近鉄の実績のほうが長いわけで、ネットでは「動かすなら平城京のほうじゃないか」といういう冗談も飛び出した。

 そんな膠着(こうちゃく)状態を動かしたきっかけが踏切道改良促進法だ。17年(平成29年)に大和西大寺駅西側の4カ所が大臣指定され、18年(平成30年)に大和西大寺駅東側の4カ所が指定された。東側の大和西大寺1号踏切は平城宮の西側境界にあり、大和西大寺2号踏切は平城宮内、朱雀門付近にある。このうち東側と西側の1カ所ずつは、20年(令和2年)の年度末、つまり21年3月31日が「改良方法を記載した地方踏切道改良計画」の提出期限となっていた。

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