火を制するには、まずものが燃える原理を知ることです。ものが燃えるためには、熱、酸素、可燃物の3要素が必要です。心の火が燃える原理も同じです。熱は、「怒りエネルギー」です。酸素は、「他人の言葉や態度」など、外部からの刺激です。可燃物は、「自我」です。
自我とは、自らの命を守りたいという「自己防衛本能」のことです。しかし、発達した脳と感情をもった人間の自我は、ただ自分を守るだけでなく、「自分こそが、この宇宙で一番尊重されるべき大切な存在である」「俺のほうが優れている!」「私のほうがえらい!」という強烈な煩悩として、私たちの中に君臨しています。
上司や部下とのやり取りの中で、相手の言葉や態度によって、「自我」が傷つけられたと感じると、怒りが生じます。「自我」という可燃物が、「相手の言葉や態度」という酸素と結びついて、「怒り」という熱をもらうことによって、心に発熱反応を起こす――それが私たちの怒りです。
しかも「相手の言葉や態度」は、その場限りで終わっているにも関わらず、自分の記憶に残って、家に帰っても、翌日になっても、1週間たっても、延々と酸素供給を続けます。かくして、怒りがなかなか鎮火しないのです。
鎮火するためには、3要素のうち、いずれかの供給を断つしかありません。
熱があっても、酸素が断たれれば、可燃物が燃え続けることはできません。熱と酸素があっても、可燃物が断たれれば、燃え続けることはできません。怒りが生じたときには、いたずらに怒りを抑えようとするのではなく、まずこの怒りが生ずるメカニズムを、理解し、思い起こしてほしいのです。
お釈迦様は、「怒らないこと」の大切さを、弟子たちに繰り返し説かれました。なぜなら、「怒り」が修行者を目的から遠ざけるからです。
仏教は、「善きことをなし、悪しきことをしない、そして心を清らかに保つ」教えです。善きこととは、巧みであること。悪しきこととは、下手なこと。お釈迦様は「下手をやめて、巧みに生きること」の大切さを説かれたのです。
巧みに生きるためには、日々起きる想定外の出来事に、いちいち感傷的になってはいけません。自己の思い込みや妄想を離れて、自分の在りよう、世の中の在りようを、冷静に、ありのままに観察し、分析し、判断する能力を育てる必要があります。けれども怒るとき、興奮状態になり、正しい認知や正しい状況判断ができなくなる。怒りが、私たちのパフォーマンスを低下させてしまうのです。
怒りはもともと、命が脅かされる危機に直面したときに、戦うか逃げるかを一瞬で判断し、行動に移すために欠かせない、生物としての情動です。怒りが発生すると、体はアドレナリンやノルアドレナリンを大量分泌し、ブドウ糖や酸素を全身に送るために、脈拍を速くして血流を増やし、闘争もしくは逃走に備えます。
職場は、アフリカのサバンナではありません。上司や部下は、私たちの命を奪うライオンではありません。けれども、身体にとっては、直面している相手が、ライオンなのか、上司なのかは区別できませんから、この「戦うか、逃げるか」反応が、職場において、私たちの心に怒りが生じるたびに、繰り返されることになります。
当然、心身は疲弊し、仕事のパフォーマンスが下がります。さらに、長引く怒り、繰り返される怒りは、私たちの免疫機能を低下させ、心身を病気になりやすくさせてしまうのです。 怒りは百害あって一利なしです。
では、怒りが発生してしまったときには――?
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