喫茶店数は30年で半減! 「純喫茶」はこのまま絶滅してしまうのかスピン経済の歩き方(5/6 ページ)

» 2022年01月25日 09時24分 公開
[窪田順生ITmedia]

「文化」を言い出した産業

 例えば、戦前の男性たちがハマったカフェーは、表面的に絶滅したが、戦後にキャバレーとして生まれ変わっている。喫茶店の世界でもそのDNAは美人喫茶やノーパン喫茶に受け継がれて、さらには時代やニーズに合わせてメイドカフェのように枝分かれもしている。

 純喫茶もこれと同じようなもので、時代によってその言葉の意味することがまったく違ってきているのだ。

 「ゆったりとした時間が流れている」とか「昭和レトロなインテリアやメニューがおしゃれ」というのが純喫茶だという認識はせいぜいこの20年程度のものだ。筆者も30年前に高校生だったとき、今、純喫茶愛好家の方たちがこよなく愛する池袋や上野の名店に通っていたが、当時はそんなおしゃれな感じはカケラもなかった。店内はタバコの煙でモヤがかかっていて、見るからにそっち系の怖い人々がボソボソと打ち合わせをして何かの取引をするなど怪しいムードが漂っていた。

普段利用しているカフェ・喫茶は「全国展開しているチェーン店」が多い(出典:クロス・マーケティング)

 そのように純喫茶の常連だった経験から言わせていただくと、純喫茶を「文化」などと持ち上げるムードには危ういものを感じている。時代によって柔軟に姿や役割を変えていくのが喫茶店なのだから、それを無理に「文化」などと枠にハメて、敷居を高くしてしまうと、逆に一般人から遠いものになってしまう恐れがあるからだ。

 「着物」が分かりやすいが、「文化」を言い出した産業というのは往々にして衰退が歯止めにかからない。

 着物という服飾文化を本当に広めたいのなら、時代の変化に合わせて、柔軟に新陳代謝を繰り返していかなければいけない。つまり、ユニクロやワークマンのような店で気軽に購入できて、洗濯もラクで普段使いできるようなデザインに変更するなどして、「新しい着物」へと進化させていかなければいけない。

 だから、作務衣や「和ファッション」は少しずつではあるがユーザーに浸透している。

 しかし、「文化を守れ」「着物の灯を絶やすな」的な上から目線の説教調では、着物ファンは従うが、一般人は足が遠のく。江戸時代の人々が着物だったのは、「文化を守れ」と言われていたからではない。それが当時の庶民のライフスタイルにフィットしていたからだ。敷居を高くしても「文化」というものは広まらないし、ましてやそれを後世に残すことなどできないのだ。

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