従業員10人の町工場が手掛けた「下町アーチェリー」 東京・江戸川区からパリ五輪へ“日の丸アーチェリー”復活(4/6 ページ)

» 2022年03月19日 07時00分 公開
[樋口隆充ITmedia]

「ゴルフは苦手」 40代半ばで競技体験、きっかけは区の広報報

 西川精機製作所は一体どのような経緯でアーチェリー業界に参入することになったのだろうか。きっかけは西川社長自身のアーチェリー体験だった。アテネ五輪での山本博選手の活躍もあり「いつかアーチェリーをやりたい」と思っていたという。

 そんな中、江戸川区役所が発行する広報紙にアーチェリー教室があることを家族が発見。区内のアーチェリー教室に通い始めた。

 「社長だと付き合いでゴルフをやることが多いが、自分は苦手だった。ゴルフの代わりにアーチェリーをしていた」(西川社長)

 平日夜の終業後に、区のアーチェリー教室に週2回通い、3カ月ほどで、ライセンスを取得し、個人で用具を購入できるようになった(※日本ではライセンス制でアーチェリー用具の管理が厳格に管理されている)。

photo 自社が手掛けた製品を手にする西川社長。近年は五十肩で競技からは遠のいているという

 好きな用具を購入しようと専門店を訪れたところ、国産メーカーがないことに気が付いた。当時は米ホイット製のアーチェリーを購入したものの「技術者の一人として悔しい気持ちが湧いた」と西川社長。同社製について「デザインはオシャレで洗練されているが、一技術者として見た時にツッコミどころがたくさんあった」(西川社長)と当時を振り返る。

 「まずは1本、自分の手でつくってみたい」。そう思った西川社長は既製品を参考に、見様見真似でアーチェリーを自作した。東京藝術大学の研究者にデザイン面で協力してもらい、プロトタイプが完成したが、結果は自身が納得できるものではなかった。

旧ニシザワ技術者の協力で「命が宿った」

 「今考えると恥ずかしい代物だったが、当時は何がダメなのかさっぱり分からなかった」という西川社長。模索する中で、頼ったのがアーチェリー業界の関係者だった。完成した試作品を各関係者に披露したが「日本企業が撤退しているのになぜつくるのか。やるだけ無駄」など多くが冷ややかな意見だった。

photo 現行機の削り出しに使用する機械。1台約5000万円するという

 そうした中、一人の関係者が「本気で国産アーチェリーを復活させるなら紹介したい人がいる」と西川社長に声をかけた。紹介されたのが、現在同社の技術顧問を務める本郷左千夫さんだ。学生時代に体育会アーチェリー部に所属し、インカレの出場経験も持つ、元選手だ。

 本郷さんは大学卒業後、アーチェリーメーカーの西沢に入社し、技術者としても活躍。新技術の開発など技術者として活躍したが、西沢の事業撤退後は、事実上、技術者としての第一線から退いていたという。

 関係者の紹介で本郷さんに面会した西川社長。自身の国産アーチェリー復活への熱い思いなどを伝え、技術協力を求めた。だが、本郷さんは「何でいまさらアーチェリーなんかつくるのか」と西川社長の提案に疑問を呈し、簡単には首を縦に振らなかった。

 「複数回アタックして、『世界一のアーチェリーをつくる』などの内容を記した誓約書のようなものを書き、やっと面倒を見てもらえるようになった」(西川社長)

photo 取材に応じる西川社長

 こうして、16年に本郷さんの技術協力の下、国産アーチェリーの開発が再スタートした。これまで我流でアーチェリーを製作していた西川社長にとって、ベテラン技術者の教えは学びの連続だった。

 「本郷さんの考えは全てが理論に則っている。ネジの場所1つ取っても理論に基づいた理由がちゃんとあり『なるほど』という発見の連続だった。本郷さんとともに開発することで、アーチェリーに“命が宿っていく”のが目に見えて分かったし、自作の中で何となくで分かっていたことが、自分の頭の中で点と点で全てつながっていくのを肌で感じた」(西川社長)

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