クルマはどう進化する? 新車から読み解く業界動向

経団連モビリティ委員会発足の裏読み池田直渡「週刊モータージャーナル」(2/4 ページ)

» 2022年09月26日 07時00分 公開
[池田直渡ITmedia]

「護送船団方式」だった戦後日本経済

 戦後の日本経済は、金融を筆頭にいわゆる「護送船団方式」で運営されてきた。政治主導による協調政策である。平たくいえば、個別社の競争力よりも、業界が群で戦う方式であり、その目的のひとつは落伍者を出さないことにあった。

 実は自動車産業はこの例外だったと筆者は思っている。1953年にわが国がGATT(関税および貿易に関する一般協定)に加盟したことを契機に、自動車輸入自由化への道が確定した。一定の経過措置で段階を踏みつつ、64年にはほぼ自動車の輸入が自由化された。

 これによる米国メーカーの日本進出で、日本の自動車産業が敗退することを恐れた当時の通産省(現経産省)は、日本の自動車メーカーをいくつかのグループに統合して、自由化に備えることを計画した。日産とプリンスなど、実際に機能したケースも少数あるが、当時の自動車メーカーはこれに強く反発し、むしろそれぞれに独立独歩の体制を強めた。

 単独社でやっていけることを示すために、F1に進出して技術力を証明してみせたホンダや、世界中で開発が難航していたロータリーエンジンを自力で完成させたマツダなどは、まさにこうした護送船団方式に巻き込まれることへの反発で大きくジャンプした例として挙げることができるだろう。以来、日本の自動車メーカーは、政治と距離を置くことをよしとしてきた印象が強い。

 昨今よくいわれる、ガラケーがスマホに駆逐された話も、キャリア主導のハードウエア開発が招いた敗北とみることができる。まずはキャリア、例えばドコモならドコモが、今年の新機能を決め、それに則って電気メーカー各社が足並みをそろえて同機能を搭載したモデルを作る。当時の製品を覚えている人なら自明のことだが、型番の頭に付くアルファベットがメーカーを表し、その下に続く数字が世代名と枝番を表し、世代ごとにどの技術がフィーチャーされたモデルかが決まる。本来競合関係にある各社が、同じ技術を同じタイミングで投入するなど不自然きわまりない。

 そうした製品戦略を決めるキャリアの上には総務省がある。まさに護送船団方式であり、またキャリア主導企画の宿命から、キャリアのカバー範囲以外では存在意義を失う。つまりどんなに高機能化しても、それはドメスティックモデルに過ぎず、本来そこを揶揄してガラパゴスといわれたのだ。最初から世界で戦ったことなど一度もなかったのがガラケーである。

 対して、日本車は60年代から個社ごとの戦術で世界で戦ってきた。それが成功した結果、米国で爆発的に売れ、むしろ80年代には、米国で日本車の排斥運動が勃発した。いわゆる日米自動車摩擦である。私見ついでに書けば、役所から無駄な介入をされなかったことが、日本の自動車産業をそれだけ成長させたと思われる。昨今必ずしも良い意味で使われるとは限らないグローバリズムだが、真っ先にそこに踏み出したのが、わが国では自動車産業であったと思っている。

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