まずは年表の「図A」。関東大震災の前に東京市が立案した7路線を現在の地図に重ねてみる。
色は現在の路線に寄せてみた。1号線は現在の都営浅草線に似ている。2号線は現在の東京メトロ銀座線に似ている。最も当時は早川徳次の東京軽便地下鉄道が免許を得ており、東京市としてはその路線も組み入れる算段だったようだ。3号線は東京メトロ丸ノ内線、4号線は東京メトロ東西線、5号線は都営三田線、6号線は東京メトロ千代田線、7号線は現在の路線に該当しない。
結節点は万世橋、新橋、雷門だ。関東大震災前は皇居の東側が都市部で、雷門つまり浅草が商業の中心地だったという。皇居の西側は「郊外」で、とりあえず山手線各駅まで高速鉄道をつくり、東側に集中する人口を西へ誘導しようという意図があったかもしれない。山手線は当時、中央線を含む中野〜東京〜品川〜池袋〜上野間を運転しており、「の」の字運転(地図で見るとひらがなの「の」を反時計回りに90回転させた形に似ているため)と呼ばれていた。
これらの路線は着手されないまま関東大震災が発生する。後藤新平は東京を復旧ではなく復興すると唱えた。再開発の好機として前向きに取り組んだ。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング