年表の「図D」。こちらも復興計画に合わせた微調整にとどまる。角筈駅は新宿駅に戻った。ただし原図では朱線で変更可能ルートも示されており、そこに角筈ルートが残っている。また、原図では日本橋〜木場間が点線の「全隧道(ぜんすいどう)」と示されている。つまり実線は「全隧道」ではない。これは計画図が必ずしもすべて地下区間だけではなく、高架区間や掘割構造も考慮されていたようだ。あるいは人口密集地のため、完全地下区間を明示する必要があったのだろう。
この案でも皇居の地下を通る。復興のためにやむなしと考えていたか。あるいは皇居に秘密の地下駅を考えていたか。想像は膨らむばかりだ。しかし、3号案までつくられても、この高速鉄道計画は復興計画から外されてしまった。免許が残され、実現可能性の高い地下鉄は、東京軽便地下鉄道の浅草〜上野間だけだった。
年表の「図E」。東京市が正式に採用した地下鉄計画だ。告示は経由地のみなので、現在の道路の地下を通ったと推定して線を引いた。各路線は次の通り。
現在の地下鉄路線図にかなり近づいている。赤は丸ノ内線の原型、オレンジは銀座線と三田線に継承された。この2路線がU字形で、皇居の地下を迂回する。後の日比谷線になりそうなグレーの線と、東西線原型の水色の線、浅草線原型となったローズピンクの線が直線的。これらによって東京の地下鉄はターナー式に分類される。
復興計画の高速鉄道図は採用されなかったけれども、路線の経由地を見ると、当時の東京市がどの街を重視していたかよく分かる。東京市の計画図は1920年も1925年もターナー式だ。ペーターゼン式の復興計画案を白紙に戻した東京市の意図はなんだろう。やはり皇居の下を通したくなかったか。
このあとの東京の地下鉄史は、この1925年の「大正14年内務省告示第56号」をもとに検討され、修正、追加されていくことになる。
復興計画の「幻のペーターゼン式」の原図はインターネットで公開されているほか、冒頭で紹介したように、8月23日から9月22日までの平日に市政会館で展示されている。場所は千代田区の日比谷公園内。
復興地下鉄路線図のほか、道路計画などの図表も興味深かった。入場無料。図録冊子も無料。館内の図書館には関東大震災に関する貴重な資料も多数ある。犠牲になられた方々を追悼しつつ、関東大震災からの復興に尽力した人々に感謝したい。
乗り鉄。書き鉄。1967年東京都生まれ。年齢=鉄道趣味歴。信州大学経済学部卒。信州大学大学院工学系研究科博士前期課程修了。出版社アスキーにてパソコン雑誌・ゲーム雑誌の広告営業を担当。1996年よりフリーライター。IT・ゲーム系ライターを経て、現在は鉄道分野で活動。著書に『(ゲームソフト)A列車で行こうシリーズ公式ガイドブック(KADOKAWA)』『ぼくは乗り鉄、おでかけ日和。(幻冬舎)』『列車ダイヤから鉄道を楽しむ方法(河出書房新社)』など。公式サイト「OFFICETHREETREES」ブログ:「すぎやまの日々」「汽車旅のしおり」。
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