なぜ東京モノレールは「浜松町」発なの? 東京や新橋ではない理由経済の「雑学」(3/4 ページ)

» 2023年09月21日 08時00分 公開
[小林拓矢ITmedia]

なぜ新橋駅ではダメだったのか

 ただ、新橋駅周辺は土地の確保が難しい状態があった。まず、現在の「ゆりかもめ」の新橋駅や汐留駅のエリアには、汐留貨物駅などの広大な土地が広がっていた。

 このほかにも民間の土地を買収しなければならない箇所が多くあり、五輪開催までに開業というデッドラインを考えると、浜松町しかなかった。浜松町ならば、駅周辺の土地もあり、あとは運河などの上を通すだけで工事は完了する。

東京モノレール10000形車両(出典:公式Webサイト)

 一応、新橋駅まで延伸する計画は残っていたものの、建設区間の短縮に伴って、1966年に免許は失効している。開業当時の東京モノレールは、13.1キロの距離を走っていた。この間に駅は1つもない。起点と終点だけの「各駅停車」の列車しかなかったのだ。

 東京五輪が始まると多くの人が利用し、1日の最高利用者は5万5000人に達したという。しかし五輪後には利用者が減り、赤字体質の企業になる。

東京五輪終了後の東京モノレール

 当時、飛行機はまだぜいたくな乗り物であり、東京モノレールの運賃も片道250円だった。1964年は新聞の定期購読が1カ月450円だったことを考えると、結構な金額だったといえる。

 それゆえに五輪終了後は経営が厳しくなる。大井競馬場前駅を開業したり、運賃値下げしたりして、需要喚起に取り組むものの、うまくいかない。大和観光改め東京モノレールの大株主だった名古屋鉄道は撤退、日立製作所が資本参加する。

 1972年度には黒字となり、国内航空路線が充実することで利用者も増加。ホームも延伸し車両も長編成となる。中間駅も増えていく。京急電鉄が羽田空港に乗り入れるまで、東京モノレールは羽田空港アクセスの主たる交通手段だった。モノレールでは足りないので、京急電鉄も羽田空港にやってくることになったのだ。

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