サイボウズ青野社長が語る、「チームワークあふれる会社」の作り方
【開催期間】2024年7月9日(火)〜7月28日(日)
【視聴】無料
【視聴方法】こちらより事前登録
【概要】「企業の成長」と「働きやすさ」をどう両立させるのか、DXやコロナ禍を経てコミュニケーションの形も働き方もガラリと変わった今、“理想的な職場”を実現するカギは何か――。ワークスタイル変革の第一線を走るサイボウズの青野慶久社長が語る。
7月28日、日本の興行史に残る記録が塗り替えられるかもしれない――。
2022年6月に東京ドームで5万6399人を動員し、那須川天心と武尊が激突した格闘技イベント「Yogibo presents THE MATCH 2022」ではABEMAペイ・パー・ビュー(PPV、有料コンテンツに料金を支払って視聴するシステム)の売り上げが50万件を突破した。PPVチケットの価格5500円×50万件だから25億円以上の売り上げがあったことになる。日本におけるコンテンツ視聴文化のパラダイムシフトを、格闘技が起こしたといっても過言ではない。
この記録を、格闘家の朝倉未来と平本蓮がメインイベントで闘う「Yogibo presents 超RIZIN.3」で超えると宣言したのが、格闘技イベント「RIZIN」(ライジン)を主催するドリームファクトリーワールドワイド(東京都港区)の榊原信行CEO(榊は正確にはきへんに神)だ。この大会は約15年ぶりに、さいたまスーパーアリーナの約4万人収容可能な「スタジアムバージョン」での会場設営で実施する。最前列のチケット料金は110万円に設定した。
大会の模様はABEMAなどの各プラットフォームが配信する他、グローバル向けオンラインライブプラットフォーム「ABEMA Live」では米国、韓国、タイの3カ国で全試合を生中継する。
THE MATCH以降も、榊原氏はPPVを始め日本の格闘技ビジネスの在り方を変えてきた。2023年大みそかの「にゃんこ大戦争 presents RIZIN.45」のPPV視聴数は30万件を超え、現在はどの大会も10万件を超えてきている。PPVで格闘技を視聴する文化の礎を築いたのはRIZINの手腕だ。
だが榊原氏に話を聞くと「1997年、実はRIZINの前身であるPRIDE時代からPPVによる放送をしていた」と話す。その原点はプロレスラーの髙田延彦が、柔術家・総合格闘家のヒクソン・グレイシーと戦った1997年のPRIDE1.にあったのだという。「絶対にPPVの時代が来ると予見していた」と語る榊原氏に、日本でのPPVビジネスの原点と、なぜ格闘技がここまで人気を博したのかを聞いた。
「もともと格闘技には全く興味が無かったんです」
榊原氏は開口一番、そう話した。新卒で東海テレビ放送の子会社、東海テレビ事業に入社。今のような「プロモーター榊原」ではなく、一会社員として、さまざまなイベント事業を手掛けた当時の仕事を振り返る。
「昔から楽しいことを考えるのが好きでした。真夏にスーツを着て出社したくなかったので、海のイベントを地元の街に提案して、スポンサーもつけて開催したり。いろいろなアイデアを考えては仕事につなげていました」
そんな榊原氏に転機が訪れたきっかけは1993年に日本で産声をあげた立技格闘技イベント「K-1」の第1回大会を見たことだった。榊原は当時29歳。ピーク時には国内地上波3局と135カ国でテレビ放映をするなど日本の格闘技ブームをけん引した。
「ヘビー級の男たちが真剣に闘う姿が当時はとても斬新でした。これは、ぜひ(自社がある)名古屋で開催したいと思い、(K-1創始者の、正道会館)石井和義館長を紹介してもらいました。そして1994年12月に、K-1として初の地方大会を名古屋で開催したのです」
榊原氏は、K-1名古屋大会の興行権と放映権を獲得。加えて、ほぼ協賛スポンサーとチケット収益だけで興行していたK-1で、新たなマネタイズの方法を考案した。例えば今では当たり前になっているリングマットやコーナーポストなどへの広告掲載である。
「1対1の男同士の闘いはきっと若い人たちも興味を持つだろうと思いました。K-1をテレビ番組にして提供社をつけ、スポンサー料の他、リングマットやコーナーポストなどの広告枠を作って、これらを組み合わせて売ることを始めました」
当時の格闘技興行の収益には、興行権料と、大会を収録したビデオの販売などがあった。初めてのテレビ放映に加え、リングやコーナーポストに広告枠を作るビジネス手法は当時、珍しかったのだ。この頃から榊原氏はプロモーターとしての才覚を発揮し始めた。
「当時は誰も格闘技をテレビで放送しようなどとは考えていませんでした。東海テレビという在名広域局ではありましたが、深夜に(K-1を)テレビ番組化してスポンサー料などを得るビジネスモデルを構築したのはわれわれでした。この大会で初めて、リングマットやコーナーポストに協賛企業のロゴを掲載したのです」
こうして榊原氏の格闘技ビジネスにおけるキャリアはスタートした。最初から格闘技を主催する興行主としてではなく、あくまで放送局の社員として、一歩引いた立場でビジネスとして見ることにより、既成概念にとらわれないマネタイズを実現するに至ったのだ。これがのちにキー局であるフジテレビでのK-1放映にもつながり、テレビ局内でもスポーツコンテンツとして扱われるようになった。
「フジテレビがK-1をゴールデンタイムで放送するようになると、ツムラや日清食品、コニカ(現コニカミノルタ)がスポンサーとして付くようになりました。スポンサー料だけではなく、コニカと組んで3Dプリントの技術を活用して、選手のグッズを販売したり、選手をキャラクター化したりするビジネスも始めました。今の格闘技ビジネスの礎を築けたと考えています」
放送局がK-1の興行権と放映権を得てイベントを成功させたことが、業界内で話題になった。そこで榊原氏に、今度はプロレス団体からも『興行権を買ってほしい』という話が入ってきた。その一つが、髙田延彦氏が代表を務めるU.W.F.インターナショナルだった。
当時、U.W.F.インターナショナルは厳しい経営状況にあった。だからこそ1995年に、新日本プロレスとの全面対抗戦を東京ドームで開催することによって、存続のための活路を見いだそうとしていたのだ。榊原氏は1996年6月、U.W.F.インターナショナル名古屋大会をプロデュースした。大会終了後に、初めて髙田氏と飲みにいった。いくつもの店をはしごしてホテルに送る途中、髙田氏から『部屋でもう少し飲もう』と誘われたという。そして部屋飲みをすることになった。
「すると髙田さんが、自分の気持ちを吐露してきました。しかも途中で泣きながら。当時“最強”の肩書があった自分は本当に最強なのか。(ボクシング元ヘビー級王者)マイク・タイソンかヒクソン・グレイシーとリアルファイトの試合がしたいと言いました。新日本プロレスとの全面対抗戦で髙田さんは、武藤敬司に屈辱的にも“足4の字固め”を受けてギブアップします。関節技を極め合うU.W.F.スタイルの髙田さんにとっては屈辱的な負け方だったはず。でも団体存続のためには受け入れざるを得なかった。ファンを裏切ってしまった償いと、自分がどこまで強いのか試したい気持ちがあったのだと思います」
こう髙田氏の気持ちを推し量る榊原氏は、知り合いのつてをたどり、写真集出版のために来日するヒクソン・グレイシー氏と面会する約束を取り付けていた。「これは運命かもしれないと思い、飲んだ翌日の夕方に髙田さんに『ヒクソンと本当に闘いたいか』と意思確認をしました。髙田さんは本心だと答えました。私は2週間後、髙田さんに関するプレゼン資料を作り、ヒクソンとの打ち合わせに臨んだのです」。
打ち合わせでは、まず本題である写真集の話を詰め、終わったタイミングで「ヒクソン、あなたと闘いたいファイターがいる」と切り出した。するとヒクソンは写真集の話そっちのけで関心を示したという。「ヒクソンはトップ選手と試合がしたいと思っていて、髙田さんのことも知っていました。ヒクソンの思惑と、髙田さんの意向がちょうど合致したのです。しかし当時の私は放送局子会社の一社員で、決してプロモーターではありません。この業界で、マッチメイクはまさにプロモーターの“聖域”なんです。よってその試合をどう実現させるか、悪戦苦闘の日々が始まります」。
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