この記事は、書籍『家電ビジネス』(安蔵靖志/クロスメディア・パブリッシング)に、編集を加えて転載したものです。なお、文中の内容・肩書などは全て出版当時のものです。
1918年(大正7年)、松下幸之助は大阪の借家で「松下電気器具製作所」を創業しました。最初のヒット商品は、電球の傘に取り付けてコンセントを2つに増やす「アタッチメントプラグ」や「二股ソケット」でした。
当時の家庭には電気の引込線が1つしかなく、電球を使いながら他の電化製品を使うことが困難だったため、この安価で便利な製品は爆発的に売れました。
幸之助は単に製品を売るだけでなく、独自の経営理念を確立しました。1932年には「産業人の使命は、水道の水のように物資を安価に無尽蔵に提供し、貧乏を克服することにある」という、いわゆる「水道哲学」を提唱。これが、後の大量生産・大量消費時代における松下電器の原動力となりました。
第二次世界大戦後、松下電器はGHQによる制限や公職追放などの苦境に立たされましたが、これを乗り越えると、日本の高度経済成長とともに飛躍を遂げます。1950年代、「三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」が人々の憧れの的となると、松下は強力な販売網(ナショナルショップ)を全国に張り巡らせ、高品質な製品を家庭に届けました。
こうしてナショナルブランドは「安心・安全」の代名詞となり、松下電器は日本の家庭の近代化をリードする「国民的企業」としての地位を不動のものにしました。
その後バブル経済の波の中で、松下電器は大きな戦略的転換を図ります。当時、ビデオデッキなどの映像ハードウエアで圧倒的なシェアを持っていた同社は、ハードを売るためのソフト(コンテンツ)を確保するため、1990年に米映画・音楽大手MCA(現ユニバーサル・スタジオ)を約61億ドルで買収しました。しかし、この買収は後に「失敗」と評されることになります。
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