パナソニックが繰り返した転身 「水道哲学」はどう進化したのか家電ビジネス(2/3 ページ)

» 2026年06月01日 06時30分 公開
[安蔵靖志ITmedia]

 日本の硬質な製造業の文化と、米国の自由奔放なエンターテインメント業界の文化は相容れず、経営の主導権を巡って対立が激化。また、巨額の投資に見合う相乗効果を生み出せず、1995年に保有株の大部分を売却して撤退を余儀なくされました。これは、ハードとソフトの融合の難しさを象徴するできごととして、日本の産業界に大きな教訓を残しました。

(出典:ゲッティイメージズ)

 2000年代初頭、ITバブルの崩壊と韓国・中国勢の台頭により、松下電器は深刻な業績低迷に陥ります。2001年度には創業以来初の最終赤字を記録。この危機に登場したのが、中村邦夫社長(当時)でした。

 中村氏は「破壊と創造」を掲げ、松下幸之助が築き上げた聖域である「事業部制」の解体に着手しました。縦割りによる非効率を排除し、研究開発や販売機能を統合するなど、痛みを伴う抜本的な構造改革を断行しました。

 これによって同社は急速なV字回復を果たし、プラズマテレビなどのデジタル家電で再び輝きを取り戻しました。

 2008年、大きな決断が下されました。創業90周年を機に、社名を「松下電器産業」から、海外で親しまれていたブランド名である「パナソニック」へと変更。これは、松下幸之助個人の名前から脱却し、グローバル企業として生き残るという決意の表れでした。

 しかし、その後のリーマンショックやテレビ事業の価格暴落により、再び数千億円規模の赤字を計上する苦難に見舞われます。これを受け、同社はB2C(個人向け事業)中心の事業構造から、B2B(企業向け事業)へのシフトを加速させました。

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