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真田信繁の九度山幽閉ライフは意外と幸せだった?「真田丸」を100倍楽しむ小話(2/2 ページ)

関ヶ原の戦いで西軍が負けた後、九度山に幽閉された真田昌幸・信繁親子。トータルで14年間もいたのですが、意外と幸せな生活を送っていたのでは……?

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小日向: 浅野家が見張ってはいましたが、そこまで厳しくしていた感じでもなさそうです。元々は高野山に幽閉されたのですが、女人禁制だったのと、あまりにも寒すぎたので、山を下りて九度山に移ったのです。

真田昌幸の墓と、真田信繁の供養碑の前で
真田昌幸の墓と、真田信繁の供養碑の前で

編集部F: 寒すぎるからというのは許されるのですか?(笑)

小日向: ちょっとゆるいですよね(笑)。九度山で信繁は10人ほど子どもが生まれました。14年間いたので毎年のように家族が増えていったわけです。

 また、根来衆や雑賀衆といった鉄砲傭兵集団とのつながりもできました。大坂の陣で真田軍の鉄砲は百発百中と言われますが、その技術は九度山時代に教わったのではないかと伝えられています。

編集部F: そういう意味では、辛い環境ではあったけど、子どもがたくさん生まれて家族が大きくなって、鉄砲などのスキルも磨かれて、信繁にとっては充実した期間だったわけですね。

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