タミヤのラジコンはこうしてブームになった:一大ブームの仕掛け人たち(1/6 ページ)
「レーサーミニ四駆」の先駆けとして、1980年代半ばにブームを巻き起こしたタミヤのラジコン(RCカー)。そのブームはどのように作られていったのか。そして、そこにはある他社商品の存在があったこと抜きには語れない。
なぜタミヤの商品はクオリティが高いのか。前回の記事では、商品開発の現場に長らくかかわった体験を基に説いてみた。そこから生まれたヒット商品の1ジャンルが、ラジコン(RCカー)だった。
その当時のタミヤのRCカーが具体的にどれだけ出荷されたかについては残念ながらここでは公開できないが、1984年と1985年には、通常の賞与に特別賞与を加えて計4回のボーナスが支給されるなど、市場の反響やRCカー景気は、全社員へのインセンティブのあり方でも物語っていた。
今回は、そんな1980年代半ば以降のRCカーブームの背景について紹介する。そこでまずは、かつての子どもたちの興味・関心を知る上で、少しだけ筆者自身のことをお話しすることをお許しいただきたい。
筆者の模型(プラモデル)との接点は、通学路にあった文房具店と、叔母が営む酒店だった。文具よりプラモデルとライトプレーンで場所を取っていたその文房具店では、小学生になると消しゴムや画用紙を買う大義名分で、手が届く棚のプラモデルの箱を次々と開けて、気が済むまで中のパーツを眺めて品定めしていた。
叔母の酒店は、量り売りするような代々継がれる古風な店だったのに、なぜか手ごろなプラモデルを扱っていた。コンビニなどなかった当時にすれば少々風変わりな店が身近にあったおかげで、プラモデルに事欠くことはなかった。
このころから、メッキパーツにバリ(不要な出っ張り)があるメーカーは敬遠した。バリを取るときにせっかくメッキされた部分まで削ることになるからだ。これには仲が悪かった同級生も同調した。こうやって小学生でも成型品の良し悪しを理解するし、そのとき抱いた印象は根深く残る。
もちろん、当時の子どもたちの関心事はプラモデルだけではない。野球盤も、光線銃SPも、タイガーマスクのフィギュアも、輸入されたばかりのモノポリーや他のボードゲーム類も、「誰かが買った」「お店にあった」と聞くと皆で駆けつけた。
ところが、中学生になると“皆”が“疎”になって、そんな状況が次第に消えていった。こうした記憶が強いこともあり、筆者にとって小学生にチヤホヤされる商品は羨望だった。
ターゲットはヤングアダルト層だった
タミヤの企画部デザイン室のメディア担当として、出版社回りも慣れてきたころのこと。いくつかの小学生向け媒体が集計したお年玉の使い方に関する読者アンケート結果や、懸賞ページの応募結果を見せてもらった。上位に「プラモデル」がなかった。
折しも、タカラ(現タカラトミー)さんの「チョロQ」が大ブレイクしていて、生産台数はとっくに1000万台を突破していた。模型メーカー数社が、よせばいいのに、これに肖った商品まで出したりして、素直に直視できなかった。小学生の“プラモデル欲しさ”は、こうやって失われていくのかという口惜しさもあった。
けれども、なぜか危機感はなく、いつかタミヤを子どもたちのホットトピックにすればいいと気焔を吐いていた。このころから、媒体別のプロモーション施策も仕事になっていった。
タミヤの商品群は「楽しい工作シリーズ」などの一部を除けば、小学生よりヤングアダルト(13〜19歳)以上の層にマッチしていると言われていて、しかも、既に当時からこのマーケットにはマスマーケティングが通用しないとも言われていた。それでも、玩具メーカー各社はもちまえのIP(intellectual property)を中・高校生に向けてブンブンと振り回して攻めていた領域だったので、筆者も少なくともそれに圧倒されず同じテーブル上に並んで見えるぐらいの媒体別アタックは続けた。
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