タミヤのラジコンはこうしてブームになった:一大ブームの仕掛け人たち(2/6 ページ)
「レーサーミニ四駆」の先駆けとして、1980年代半ばにブームを巻き起こしたタミヤのラジコン(RCカー)。そのブームはどのように作られていったのか。そして、そこにはある他社商品の存在があったこと抜きには語れない。
中学生や高校生が読む雑誌と言えば、90年代まで学習雑誌(○○コース/○○時代)という絶好の媒体があって、たびたびパブリシティにも協力いただいた。だが、かつて筆者もお世話になった媒体なので、読者がホビーやエンタメ情報を一番に求めていないことぐらい肌で分かっていたし、そこを何とかしようとする企画には編集部も冷ややかだった。
ほかにこれらの世代をつかんで離さないようなユニティーな媒体はなかったので、少しでも中・高校生層をとらえている媒体を次々と当たるしかなかった。それは主に、パソコン、ゲーム、アニメ、ファッション、音楽といった専門誌、そしてコミック誌だった。
専門誌だから専門情報外のニュースは大して重要ではない。継続的な企画は期待できないから、せめて絵的な露出だけでもと足繁く編集部に通って、とにかく数を打とうと割り切った。ところが、専門誌では専門情報外のニュースが一くくりにされやすいせいか、模型の情報も一般のニュースと遜色ない対応を受けることが多かった。思いがけずこれはラッキーだった。
ある大手アニメ専門誌ではRCカーの企画ページを連載で設けるなり、「(原稿を)書いて!」と言われ、そのまま筆者がタミヤを辞するまで続いた。また、ある大手ゲーム専門誌では、たびたびタミヤ情報が漫画の具材になり、作家がRCカーにハマると3週連続でそれをネタにした漫画が綴られる展開もあった。
もちろん、これらの動きがヤングアダルト層にどこまで刺さったかは不明だ。ただ、次第にRCカーとは縁遠かった様々な専門誌の編集担当者がはるばる静岡入りし、本社やタミヤサーキットでの撮影を敢行することが増えていった。結果、特にカラーページでのRCカーの露出は格段に増えた。媒体資料をベースに広告料金に換算すると、月次で計4000万円前後のボリュームになっていた。今より雑誌がすこぶる元気で、それぞれの専門分野ごとに多くが競合してマーケットを盛り上げた時代だったことも大きな要因ではあった。
少し時期が前後するが、ヤングアダルトとは別に小学生へのアプローチも進めつつあった。ちょうど当時の小学館の学習雑誌(小学一年生〜小学六年生)が、故小松左京先生を審査員に迎えて「プラモ写真コンテスト」を主催したこともあって、以降、各学年誌の編集部と編集担当者に往訪することが多くなっていた。
あるとき、ほかの雑誌の取材用に持参したRCカーの完成品を引っ提げたまま「小学六年生」の副編集長を訪ねた。物々しいバッグの中身が何であるかを言わないわけにもいかず、小学生には難しいことを前置きして見せると、「ちょっと待て、まだ時間あるか?」と聞かれ、外の商店街(すずらん通り)にある某編集部までの地図を渡された。「ここにすぐ行って、今のこと話して。連絡しておくから」と言われた。こことは『コロコロコミック』の編集部だった。
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