タミヤのラジコンはこうしてブームになった:一大ブームの仕掛け人たち(4/6 ページ)
「レーサーミニ四駆」の先駆けとして、1980年代半ばにブームを巻き起こしたタミヤのラジコン(RCカー)。そのブームはどのように作られていったのか。そして、そこにはある他社商品の存在があったこと抜きには語れない。
少年向けホビーのレベルを超えた価格
コロコロコミックの巻頭で、新しいRCカーのイメージショットや走行シーンなどが露出されるようになると、メイン読者の小学生(中・高学年)の反響がよく伝わってきた。読者アンケートの結果でも、RCカーの人気は長期に渡ってファミコンとともにトップクラスにあった。タミヤが全国の百貨店で開催していた展示イベント「タミヤモデラーズギャラリー」でも、RCカーに関する質問や売れ方が変わってきた。筆者個人にとっても、工作に目覚めてほしかった対象への訴求効果が格段に上がって嬉しかったが、大きな問題も起きた。
その多くは、プロポ(送信機・受信機のセット)が別売りだと知らずにRCカーだけを買ったことや、プロポと専用バッテリー&充電器セットを加えたらおよそ3万5000円にもなる高額なものを少年向けホビーとして押し出すことへの苦情だった。アフターサービス部門のボスが、そんなユーザーや親の反応をつぶさに知らせては警鐘を鳴らしてくれた。プロポとバッテリー&充電器が別売りであることを強調する対応は進んだが、もう一方の問題解決はとても悩ましかった。
筆者は当初、コロコロコミックで小学生にタミヤを良く知ってもらい関心を持ち続けてもらえるような戦略が叶えば、彼らが中学生以上になったときにはRCカーフリークも増え、マーケットもスケールするだろうと考えていた。だから、売らんかなというトーンは一切消して、RCカーは「カッコいい」というイメージ最優先の見せ方に徹底していた。
それでも、ワイルドウイリスが欲しいという小学生や、その保護者からの問い合わせが思いのほか多くなっていった。正直言って、当時コロコロコミックの誌面を賑わせたワイルドウイリスやマイティフロッグは、小学生の高学年でも難易度が高めな工作だったはずだ。3万5000円も出して、「組立てられない=走らせられない」で良いはずもない。
タミヤでは、“First in quality around the world”という 品質絶対優先主義を掲げていて、それは揺るぎないものだった。従って、それまでのRCカー製品もそのクオリティに見合う価格設定がなされるものだったから、価格戦略など到底できない相談だった。
そんな中、5000円、1万円という思い切った低価格帯のRCカーが出せないものか、筆者は危機意識にまかせて、デザイン室顧問の田宮督夫先生と当時の企画部長に対してリポートや素案を繰り返し提出し続けるしかなかった。
1万円を切る低価格帯のオフロードRCカーは、過去に、その実績やベースがなくはなかった。1980年にリリースされた「ホリデーバギー」「デューンバギー」がそれだ。部品点数が少なく、FRPプレートの弾性を利用したリアサスペンションや、塗装をする必要がなく衝撃吸収性に優れる美麗なメタリックブルーの塩化ビニール製のボディなど(ホリデーバギー)、入門者用マシンとして画期的な意欲作だった。
ただし、当時の商品群を象徴するフラッグシップモデルがどれで、各モデルの持ち味は何で、諸元はどうか、といった情報が拡散されない中で廉価や入門者用をうたっても、打ち出しが弱いことは否めなかった。
そうした中で、ワイルドウイリスやマイティフロッグを象徴化でき、それに手を伸ばそうとしている対象もはっきり見えてきたのである。少なくとも、ホリデーバギー、デューンバギーのようにならないことは説明できたし、ボリュームゾーンがそこにあることは、コロコロコミック、学習雑誌、そのほかの編集担当者から示された資料からも見えていた。
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