電子国家エストニア 世界で最も多くスタートアップを生み出す小国の「本気」アナリストの“眼”で世界をのぞく

電子政府をはじめとするデジタル関連施策で注目を集めるエストニア。なぜ人口130万人の小国にもかかわらず、世界で最も多くスタートアップを生み出すに至ったのか。実際に同国を訪れた筆者が現地で見たものとは。

» 2023年05月26日 13時00分 公開
[小林明子矢野経済研究所]

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この連載について

目まぐるしく動くIT業界。その中でどのテクノロジーが今後伸びるのか、同業他社はどのようなIT戦略を採っているのか。「実際のところ」にたどり着くのは容易ではありません。この連載はアナリストとしてIT業界と周辺の動向をフラットに見つめる矢野経済研究所 小林明子氏(主席研究員)が、調査結果を深堀りするとともに、一次情報からインサイト(洞察)を導き出す“道のり”を明らかにします。

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 ゴールデンウィークにバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に旅行をした。筆者にとって旅行はライフワークのようなもので、これまで訪問した国は80カ国ほどになる。「ITmedia エンタープライズ」で単に旅行記を書くわけにはいかないので、電子国家として知られるエストニアをテーマにしよう。

世界で最も多くスタートアップを生み出す小国の「本気」

 日本ではデジタル庁の設立やマイナンバー制度の導入に関連してエストニアが話題になることが多く、近年認知度が高まった印象がある。なお、今回の旅行は取材や視察ではなく個人旅行であり、本稿は文献調査と旅行者としての印象に基づいている。

モビリティを改革するエストニア発ユニコーン企業Bolt

 バルト3国の首都はいずれも美しい世界遺産の街だ。街を歩くと、シェアリング電動キックスケーターの多さとBolt(ボルト)という企業名に気づく。大勢の老若男女が電動キックスケーターを使ってすいすいと移動している。自転車感覚で使っているようだ。バルト三国におけるシェアリング電動キックスケーターのサービスを提供する大手企業がBoltだ。

 Boltは2013年にエストニアで創業したユニコーン企業(企業評価額約10億ドル以上・創業10年以内のスタートアップ、未上場)だ。Boltは電動キックスケーター以外にも、配車アプリの運営やフードデリバリー事業も手掛けている。エストニアの街では、Uber Eatsの黒色ではなく鮮やかな緑色のBoltのリュックサックを背負って自転車で走る配送スタッフもよく見かけた。

同社の公式Webサイトによると、2023年5月時点で電動キックスケーター事業は欧州20カ国で、配車アプリ事業は欧州はもちろんアフリカや南米、アジア(タイなど)で幅広く展開している。

 エストニアの人口は約130万人で、日本の奈良県や山口県くらいの規模にすぎない。小国から世界的なスタートアップ企業が生まれているのだなと思った。あのSkypeもエストニア発だ。エストニア政府の資料によると人口1人当たりのユニコーン輩出数、スタートアップ数は世界一だという。各社の事業内容を見ると、モビリティやFinTech、エネルギーなど、高度なテクノロジーを使って社会課題を解決する企業が多く、それが世界的な評価の獲得にもつながっているのだろう。

図表2 エストニア発のユニコーン企業(現在上場した企業や買収された企業を含む)(出典:筆者作成) 図表2 エストニア発のユニコーン企業(現在上場した企業や買収された企業を含む)(出典:筆者作成)

 Boltに話を戻す。Boltは初め配車アプリ事業で創業したが、近距離移動では自動車を使うユーザーが多かったことから、より便利で安価かつエコな移動手段としてシェアリング電動キックスケーター事業の提供を始めたという。電動キックスケーターは、自動車より短い距離の移動を気軽に行えるマイクロモビリティとして注目されている。自宅から鉄道の駅まで徒歩20分かかるとして、自動車を利用するとコストや駐車スペースなどさまざまな問題がある。電動キックスケーターであれば、コンパクトで環境負荷も小さい。配車アプリやカーシェアリングというBoltの事業展開をみると、同社はより統合的なMaaS(Mobility as a Service)を提供し、渋滞やラストワンマイルの移動などの課題を抱える都市交通の改革を目指していることがうかがえる。

 東京でも最近、電動キックスケーターを見かけるようになったが、バルト3国での普及ぶりには驚いた。外国人観光客でもアプリ一つで手軽に利用手続きや支払いができるため乗ってみたかったが、あいにく筆者は自転車以外の車輪がついた乗り物を運転できず、現地の交通ルールも分からないまま海外で交通事故を起こすのが心配で、思い切れなかった。

 日本でも2023年7月に予定されている法改正によって、電動キックスケーターの利用に運転免許証が不要となり、ヘルメット着用は努力義務、自転車専用通行帯歩道の走行可能(条件付き)となる。7月以降には日本でシェアリング電動キックスケーターサービスを使ってみて、次の旅行では海外でも乗りこなしたいと思っている。

電子政府エストニアの実力

 エストニアがとりわけ有名なのは電子政府である。日本からの視察は非常に多いようだ。行政サービスは、選挙の投票を含めてほぼ全ての手続きがオンラインで行える。わずかな例外は結婚と離婚の手続きだ。数年前までは不動産売買もオンラインでできない手続きに含まれていたようだが、現時点ではオンライン手続きが可能になっている。

 電子国家の基盤となるシステムは2001年にスタートした「X-Road」というデータ基盤と電子身分証明書である。日本のマイナンバーカードにあたる電子身分証明書を全国民が所有している。電子身分証明書は、物理的なカードだけではなくアプリでも利用できる。セキュリティを確保するために、2008年からブロックチェーン技術を活用してオンラインの記録を保護している。X-Roadを介して行政や金融、医療、各種民間サービスを安全に連携し、官民で社会全体の電子化を推進するエコシステムを構築している。

図2:X-Road概念図(出典:<A HREF="https://x-road.global/x-road-technology-Overview" target="_blank" rel="noopener">X-RoadのWebサイト) 図2:X-Road概念図(出典:https://x-road.global/x-road-technology-Overview□X-RoadのWebサイト)

 エストニアの電子国家は、本稿を読んでいるあなたも体験できる。エストニアは「e-Residency」(電子住民)プログラムのパイオニアだ。エストニア国外も含めてどこに住んでいても100ユーロほどの手数料を払えば、外国人もe-Residencyを申請できる。政府は2023年2月にe-Residencyカード発行数が10万件を突破したと発表している。電子住民として登録されている人数や国籍などの情報は公開されており、情報の透明性も高い。

 筆者が確認した時点では日本で電子住民として登録している人数は3430人だった(「e-⁠Residency in numbers」(Republic of Estonia e-Residency))。電子住民はインターネットを使ってエストニアに会社を設立できるため、欧州での事業展開にはメリットがあるだろう。エストニアにおける会社設立の手続きは完全に電子化されており、2〜4時間で登録が完了する。エストニア政府にとってのメリットは、海外からの投資の呼び込みや税収増の他、上述の多数のスタートアップ輩出の成功にもつながっていそうだ。

 エストニアの成功に倣った国は複数ある。同じバルト三国のリトアニアも2022年にe-Residencyプログラムを設けた。

 日本国内に目を向けると、加賀市(石川県)が「e-加賀市民制度(加賀版 e-Residency)」と称した取り組みを進めている。少子高齢化と税収減少に悩む地方自治体は、関係人口(定住者や観光客以外で地域と関わりを持つ人口)の増加を図る動きが進んでいる。加賀市は、e-Residencyによって、ワーケーションなどを通じて加賀市と関係を深める人を増やし、将来的な移住増加や企業誘致などを目指すという。

 ただし、筆者は旅行者として訪れたため、エストニアの電子国家ぶりを体感できたわけではない。確かにデジタル化は進んでいる。中長距離の移動する際は乗車チケットをインターネットで予約でき、チケットはQRコードが配信されるためペーパーレスだ。支払いに現金を使うことはほとんどない。バスの運賃は現金でも支払えるが、「Suica」のような交通カードでの支払いと比べて料金が高く設定されている。スーパーマーケットでは、商品のバーコードをスキャンするところから支払いまでの一連の業務に従業員が一切関わらないフルセルフレジが多く利用されている。しかし、これらのデジタル化はエストニアに限らず、リトアニアやラトビアを含めた他の欧州諸国でも同様に進んでいる。エストニアのデジタル化が進んでいるというよりも、日本にまだアナログな部分が多いのだと感じた。

 一方で、「人口が130万人しかいないエストニアと1億2千万人の日本とは事情が異なる、簡単にまねできるわけではない」といわれることもある。エストニアは小国なので、スタートアップの育成にしても電子国家にしても徹底してやりやすいというわけだ。日本では、政府であれ企業であれ、デジタル化を進めようとすると、「デジタルデバイド(情報格差)の問題があるから、高齢者やITリテラシーが高くない人のためにアナログの手段を残さなくては」といった議論になりがちだ。部分的な取り組みや企業個別の取り組みはあっても、官民含めたエコシステムを構築するという次元には到達しづらい。

 エストニアと日本のデジタル化の進展度合いに差があるのは、人口の違いは要因の一つではあるだろう。しかし、エストニアにももちろん高齢者はおり、彼らはオンラインバンキングや電子投票などを活用し、デジタル化した社会に馴染(なじ)んで生活している。そのために政府は高齢者でも利用しやすいUX(User eXperience)を提供し、IT能力底上げのための教育などの施策を打っている。

 「全体構想をきちんと描く」「小手先のデジタル化ではなく根本的な変革に踏み込む」といったエストニア政府と企業双方の本気度や姿勢には、大いに習うべき点があると筆者は考えている。

筆者紹介:小林明子(矢野経済研究所 主席研究員)

2007年矢野経済研究所入社。IT専門のアナリストとして調査、コンサルテーション、マーケティング支援、情報発信を行う。担当領域はDXやエンタープライズアプリケーション、政府・公共系ソリューション、海外IT動向。第三次AIブームの初期にAI調査レポートを企画・発刊するなど、新テクノロジー分野の研究も得意とする。


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