技術的課題や権利処理の問題はまだまだ山積しているのだが、仮にすべての問題が解決された“わかりやすいもの”となれば、携帯動画プレーヤーは第2のウォークマンになれるのだろうか。それともニッチな存在にとどまり、動画再生機能だけが携帯などに組み込まれていくのか。
その答えを導き出す1つのアプローチとして、ヒトを生理学的見地で分析した“私見”を述べてみたい。
ヒトの集中力には、個人差こそあれ限界がある。外界から受け取る情報を処理する能力に限界があると言い換えてもいい。起きて目を開けているあいだは視覚を始めとした五感をフル活動させて飛び込んでくる情報を処理しなくてはならない。このコラムを読むという行為も、視覚器(つまりは目だ)を駆使して、文字を読み、文意を探り、何いってんだコイツとか考えたりする情報処理なわけである。
一説によればヒトを始めとした霊長類の大脳皮質のおよそ7割が視覚に関する情報処理を担っており、それだけ情報入手の多くを視覚に依存しているといえる。「目は口ほどにものを言う」ということわざは、経験則的に視覚から得られる情報の多さを表現したものだ。ただ、相対的に聴覚や嗅覚などが占めるウェイトは低くなる。
ウォークマンが登場したとき、「見慣れた街中がステージのようだ!」と感動の声を上げた人がいるというが、それは主たる情報(映像)はそのままに、従たる情報(音)がいつもの街のざわめきではなく、お気に入りの音楽に変わったからである。
携帯オーディオプレーヤーがここまでの支持を得たのは、音という従的な情報ならば日常生活のあらゆる場所で、そのほかの情報と共存できるからだ。携帯動画プレーヤーは映像を流すという目的ゆえに、再生が開始されるとその世界へヒトを否応なしに引きずり込んでしまう。テレビをつけっぱなしにすると集中力が散漫になることからもわかるよう、映像がヒトの生理に及ぼす影響は大きいのだ。
ただ、これは“これまで”の話。1979年のウォークマン誕生から27年目を迎え、私たちは「音楽を聴きながら通勤する、音楽を聴きながら本を読む」などという“ながら”生活に慣れ親しんできた。同じように、携帯動画プレーヤーで「映像を見ながら○○する」というライフスタイルを当たり前に受け入れられるニュータイプが台頭してくるのも、そう先の話ではないのかもかもしれない。
そうなったとき、筆者はオールドタイプと言われるのかもしれないが。
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