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〜来なかった未来〜 PDAはなぜ衰退したか小寺信良(1/3 ページ)

» 2006年06月19日 13時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 普段から偉そうなことを書いている割に小心者である筆者は、取材のときに使うパソコンでいつも悩む。仕事柄AV機器メーカーへの取材が多いわけだが、そういうメーカーは大抵パソコンも作っている。

 つまりナニが言いたいかというと、ソニーに取材に言ってLet's Noteを広げるのもナンだし、Appleに取材にいってVAIO広げるのもナンだし、というわけで、結構いろんな場所で板ばさみになる自分が居る。先方もそこまでは気にしていないのかもしれないが、こっちが恐縮するのが小心者の小心者たるゆえんである。

 そんなときに編み出した戦法が、まず国内メーカーでも作っていないものを持っていく、というスタイルだ。かつて筆者がPSION Series 5mxというイギリス製のハンドヘルドPCを愛用していたのは、そんな事情もある。

photo 以前愛用していたPSION Series 5mx

 今となってはもう5mxも売ってないので、どういうものかご存じない方も多いと思う。このOSがSymbianで、のちに携帯電話用として用いられ、スマートフォンの代表となっていったわけだが、その出自を知る人は少ないだろう。

 まあそれはそれとして、5mxは日本語環境もあり、FEPの出来こそ今一つだったがソフトウェアはかなり充実していた。特にスケジュール管理ソフトの「Agenda」は完成度が高く、未だにこれを超えるものを筆者は見たことがない。5mx 1台あれば、PCを持ち歩かなくてもかなりのことができた。

 ただ5mxが弱かったのが、ネットワーク環境である。標準で備わっている外部ポートと言えば、シリアルポートと赤外線だけであった。シリアルポートにPHSを接続して、一応メールやWEBのブラウジングまではできるようになったのだが、いちいちケーブルを接続するのが面倒な上に、表示が遅い。このあたりが限界か、ということで、3年前ぐらいから次第に持ち歩くことは少なくなっていった。

PDAとは何だったのか

 かつて日本では、というか世界でもそうだと思うが、いわゆるPDAやハンドヘルドPCが大いに流行したことがある。PalmやiPAQ、sigmarion、モバイルギアあたりはご記憶の方もあるかもしれないが、HP-200LXやのちに続くJornada 720、日本ビクターのInterLinkなどは、あまり知られていないかもしれない。PSIONなどは日本法人がなかったこともあり、マイナーな中でもさらにニッチなポジションだったろう。

 もともとPDA(Personal Digital Assistants)という概念は、かつてAppleのCEOだったジョン・スカリーによって、世の中に公表された。スケジュールやアドレス帳など、これまで紙の手帳で行なっていたパーソナル情報の管理を、デジタルデバイスでやろうというわけである。

 そしてそれを実現したデバイスが、1993年に発売されたAppleの「Newton」であった。米国では新聞記者らが喜んで使っていたそうであるが、日本人にとってはサイズが大きく、日本語のローカライズの遅れもあって、あまり流行らなかった。

 もちろん日本ではそれ以前の1980年代から、すでに「電子手帳」というジャンルが開花していたこともある。シャープのZaurusなどは現在までスタイルを変えながら面々と生き延びている、まさにデジタルの“恐竜”であろう。

 PDAの名を一気に広めたのは、おそらくPalmの登場ではなかったかと思う。PCのように高速化、高機能化に反して、純粋なパーソナルサポート機としてのコンセプトを貫いた。

 かつては大きなシェアを占めたPDAだが、一方のハンドヘルドPCというのは、それに変わるものではなく、PDAと並行で走っていったソリューションである。これにはいくつかの理由が考えられるが、それはユーザーの情報への接し方に違いがあったからだろうと思う。

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