ドイツの「BRAUN」(ブラウン)という家電ブランドをご存知だろうか? 日本ではシェーバーや電動歯ブラシでおなじみだが、実は本国では調理家電製品なども数多く作っており、グローバルに展開している。
ブラウンはデザイン性の高さで他のメーカーからもリスペクトされており、あのAppleもブラウン製品にインスパイアされて、いくつかの製品をデザインしたという。「家電デザインのルーツ」と呼ばれる同社の秘密を探るため、ドイツ・クロンベルグにあるミュージアム「ブラウンコレクション」を訪ねた。
ブラウンが家電デザインのルーツと呼ばれる理由は、創業からの歴史そのものにある。また1955年は1つのターニングポイントになったとされている。まずそのストーリーをひもといていこう。
ブラウンは1921年、マックス・ブラウンによって創業された。最初は当時の工業用機械を動かすためのコンベヤーベルトを固定する工具を販売。それを元手に最初の自社製品となるHi-Fiラジオを製造する。1930年頃にはドイツを代表するラジオメーカーへと成長するものの、その後は第2次世界大戦へ突入。家庭用機器は一時製造できなくなった。ただ、その間にもマックス・ブラウンはさまざまなアイデアをあたためており、終戦後はジューサーやクッキングミキサーなどのキッチン家電を相次いで生み出した。
しかし1951年にマックス・ブラウンが急逝。その経営は技術者のアルトゥール・ブラウンとビジネスの学位を取得していたエルヴィン・ブラウン――2人の息子に引き継がれる。ブラウン兄弟は、「人に対する尊厳」というビジョンを掲げ、高いデザイン性と機能性を持つ優れたプロダクトを多く生み出していく。
さらなるデザイナーを求めていたブラウンは、ドイツのモダンインダストリアルデザインと密接に関わり、デザインアカデミー 「ウルム造形大学」に注目する。この大学は、1919年から1939年まで14年間という短い期間ながらも美術と建築に関する総合的な教育を行ったアカデミー「バウハウス」の流れをくむ学校だ。ブラウンは、ウルム造形大学で教鞭(きょうべん)をとっていた3人のデザイナーとともに新しいデザインを提案。1955年にデュッセルドルフ見本市でお披露目した。
見本市で公開されたHi-Fiオーディオのうち2つに使われたデザイン言語を今後のブラウンのデザインとして掲げた。と同時に、デザイナーの1人であり、当時ブラウンのコマーシャルディレクターを務めていたフリッツ・アイシュラーは、ブラウンの顔として使われるブランドロゴの細かなレギュレーションを決めた。
1919年から1939年までの14年間、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行ったアカデミー「バウハウス」。第2次大戦時にナチスにより閉校させられるが、その流れをくむ合理主義的・機能主義的な芸術は、その後のモダニズムを牽引した。写真はドイツ世界遺産のバウハウス・デッサウの校舎
少し時をさかのぼること1952〜1953年、後のブラウンのモダンデザインを確固たる地位へと引き上げ、大幅に進化させることになるディーター・ラムスが、外部の建築家としてブラウンのオフィスデザインを依頼される。その仕事ぶりと才能にフリッツ・アイシュラーが目を付け、ブラウンのチーフデザイナーに抜擢した。
実は、1955年にデュッセルドルフ見本市で展示したブラウン製品は、新しすぎたのか、その後2年間もオーダーが入らなかったが、戦後の暗い時代から次第に新しいものを求める時代へと移りゆく中、ディーター・ラムスを中心とするデザインチームが新しいデザインコンセプトの元で製作したHi-Fiオーディオが次第に市場に受け入れられはじめる。1958年には、後の「MoMA」(ニューヨーク近代美術館)で、一流のパーマネントコレクションに選ばれるレコードプレーヤー「SK4」、通称“白雪姫の棺”も生み出された。
この頃、アルトゥールとエルヴィンは、今後ブラウンがグローバルビジネスへ打って出るにあたり、Hi-Fiオーディオだけでは行き詰まると確信。世界中でニーズの高い製品カテゴリーとして、キッチン家電に目を付けた。1951年以前、つまり創業者マックス・ブラウン時代に開発されたキッチン家電などをデザインし直し、新しいブラウン製品として提案し始める。
ここで重要なことは、1955年という今から60年も前に、ブラウンはすでに現在のさまざまなメーカーが考えるようなブランディングやデザインの統一などを図っていたことだろう。これこそ、ブラウンが家電デザインのルーツと呼ばれる1つ目の理由である。
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