来てよその“日”を飛び越えて――今こそ、震災復興ツーリズムのススメ『あまちゃん』最終回記念(9/9 ページ)

» 2013年09月30日 12時40分 公開
[本橋ゆうこ,Business Media 誠]
誠ブログ
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保存を断念した南三陸町防災庁舎、そして解体が始まった共徳丸

 南三陸町の骨組みだけになった防災対策庁舎も、行政側が撤去の方針を決めた後で、住民側から「震災を記憶するために残すべきだ」という声が上がって議論になったが、遂に保存を断念した(参照リンク)

 これは被災地となった地域ではどこでもそうなのだろうが、被災の状況・程度というのはそれこそ人と場所により千差万別で、中々一概に結論を出せる問題ばかりではないのだろう。しかし、そうであればこそ尚更、多くの人が参加し、活発に議論が行われることに意味はある。

 一方、やはりテレビで何度も映像が流れた、気仙沼の内陸に打ち上げられた漁船「第18共徳丸」は、つい先日、9月9日から解体作業が始まった(参照動画)

9月9日から解体作業が始まった、漁船「第18共徳丸」(撮影:吉岡綾乃、2013年8月11日)

 海から800メートルもの内陸に打ち上げられた船ということで、津波の恐ろしさを永く後世に伝えようと、市は「震災遺構」として保存を目指した。しかし気仙沼市側が行ったアンケートの結果、「保存の必要はない」という住民の回答が約7割を占めたため、保存を断念した、という経緯がある。遺構が私有地にあるという問題だけではなく、地元住民の中にやはり津波被害を思い出させる船体の保存を望まない声もあって、結局はそれを無視できなかったようだ。

 共徳丸の解体工事は、北海道・室蘭市のNPO法人が請負い、10月19日までに完了する予定だ。筆者はこれらの遺構の近くを、通過するバスの窓から眺めることしかできなかったが、それでも、遠目にも深く心に訴えかけて来るものがあった。それは、あの大川小学校の遺構の前に立った時とほとんど同じものだ。「凄い、恐い、酷い、どうして……」そういう、声にならない痛みと畏れの感情である。きっと、年月を経ても自分はこれを忘れることはないだろう、と思う。しかし、その先の時代の人々にとっては?

 東日本大震災の後、かつて大津波を経験した昔の日本人達が、その恐ろしさを子子孫孫に伝えようと記念に建立した碑や建物の幾つもが、本来の存在意義を忘れ去られて、土中や、ただの家並みの中に埋没していたのが、至るところで再発見された。

 記憶は、その時に生きていた人々がいなくなれば、あっけないほど簡単に失われてしまう。どんな恐怖も、苦難の記憶も、代を重ね口伝する人間が絶えれば、いつかは忘れられるのだ。さらに脆いのは人の手による構造物で、一度完全に壊してしまったら二度と元に戻すことはできない。

 歴史とは、誰かが「正しく伝えよう」と努力しなければ本来残らないものなのだ。そしてその努力は、人々の営みの中で、途切れずに将来にわたり続けられるからこそ価値がある。今、その未来に向けた「伝える仕組み」を作れるかどうかが、大震災を経験した我々現代の日本人に問われているのだと感じる。

 最後に。こういうことを考えながら東北を巡った今回の旅は、最近ようやく議論されるようになってきたいわゆる「ダークツーリズム」(参照リンク)の流れに属するものかもしれないが、かといって旅の間中、難しい顔をしてわざと悲しい記憶ばかりを辿っていたという意識も当人には無い。天気の良い日など綺麗な景色はちゃんと堪能したし、美味しいものは素直に美味しかった。そこには同情も哀悼のポーズも必要ない。

 旅をするこちらは活力をもらいに行って、時々気の向く場面でお金を使い、見聞を得て帰って来た。それでも十分ではないだろうか? 知らないよりは知っていた方が、何ができるかを考えることもできる。

 だから今からでも、いやむしろ今だからこそ、「震災復興ツーリズム」に行く意義は大いにあるのだ。

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