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日本で「巨大ロボットもの」というジャンルが生まれ、それが長く愛された理由には、第二次大戦の敗戦体験があるのではないかという意見がある。
これは伝聞であり、今ではご本人が亡くなられてしまわれたため、もはや確かめようがない。だから、ある偉大なロボット作品の作者の意見としてのみ紹介するが、その作家は、あの戦争のときに日本人は、B-29に代表される技術文明への恐怖と敗北感をとことんまで味わい、戦後も集合無意識として引きずっていたと指摘したそうだ。そして、そんな恐怖を吹き払ってしまうような夢を仮託されて生まれた存在が、強大なパワーを持つ科学技術の巨人、巨大ロボットだったのではないかと語ったという。
この意見は正しいのかもしれない。あの戦争で日本人が体験した、技術文明への恐怖は、かんたんには払拭できるものではなかったはずである。あの恐怖を吹き飛ばすようなスーパーパワーがこちらにもあれば、という気持ちが広く世の中にあったのかもしれない。
しかし、誕生の背景には敗北感があったとしても、いざ生まれ落ちた「巨大ロボットもの」は、もっとあっけらかんと子どもたちのロマンを乗せて育っていったように思う。
1972年に放映された『マジンガーZ』はキャラクター商品展開でも「超合金」などの大ヒットを生み出し、大きな成功を収めた。現代では玩具市場の花形であるキャラクターグッズだが、実は意外にもキャラクターグッズはこの当時“雑玩”と分類され、純玩具と呼ばれた非キャラクターの玩具に対して日の当たらないジャンルだったという。
しかし、有線リモコンの自動車や競馬ゲームといった純玩具の、初期出荷ロット数は多くて1000ダース、1万2000個。こうした時代に「超合金」は100万個を突破するという文字どおり桁違いの大ヒットを達成してしまった。
この「マジンガー」の成功により、広告代理店、玩具メーカーのスポンサー、映像制作会社が、最初から連携して番組をつくるという体制が確立されていくようになる。これにより、いわば巨大ロボットものの“開発資金”が確保されたわけだが、しかしつくり手にとって問題はあった。
それは「では、マジンガーの次には、いったいなにをつくればいいのか」という問題である。「マジンガー」が大成功したといっても、まだ巨大ロボットものというジャンルは誕生したばかり。「マジンガー」の次にいったいどのようなロボットをつくればいいのか、当時はまだ、方法論が確立されていなかったのである。
こうした時期、「そもそも子どもはなぜ巨大ロボットに魅力を感じるのか」という問いにとことん取り組み、『勇者ライディーン』(75年)、『超電磁ロボ コン・バトラーV』(76年)といった、現代でもなお愛される作品を生み出した人たちが、バンダイの村上克司氏や、当時はまだ創映社といった、今のサンライズの人たちだった。
村上氏は「超合金」の商品企画を行い、またデザイナーとしてロボットキャラクターの名作を次々と生み出し、巨大ロボット界を代表する才能の一人となった人である。そしてサンライズは多くの巨大ロボットものの名作を世に送り、巨大ロボットもの分野の雄として知られることになるアニメーション制作会社だ。
サンライズの人たちは「ポスト・マジンガー」を制作するにあたって、テレビシリーズを研究したり漫画を熟読したが、どうも巨大ロボットものがヒットしている理由がつかめなかった。そこで彼らはデパートの玩具売り場に通い、しゃがみこんで子どもと遊びながら話を聞いてみたという。
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