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「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授「どうする!?どうなる?都条例」(1/2 ページ)

» 2010年05月20日 19時25分 公開
[小林伸也,ITmedia]

 東京都の青少年育成条例改正案について現役の漫画家らが発言したイベント「どうする!?どうなる?都条例──非実在青少年とケータイ規制を考える」(5月17日)では、首都大学東京の宮台真司教授が改正案について、「社会学者から見た都条例改正案」というテーマで発言した。

「どうする!?どうなる?都条例──非実在青少年とケータイ規制を考える」

事実上の「非実在青少年」表現規制か──都条例改正案に批判相次ぐ


 宮台教授は翌日の都議会総務委での参考人招致で意見陳述しており(TOKYO MX「都議会 性描写規制案めぐり参考人招致」)、この日の発言は意見陳述とほぼ同じ内容。改正案を「ゾーニングの顔をした表現規制」だと批判した上、表現規制による法益が疑わしいこと、メディアによる悪影響論には学問的根拠がないこと、市民の議論で意思を形成していくべき表現のあり方について行政が一方的に封殺することは「社会の自立の自殺、行政による他殺」である──などと述べた。

 宮台教授の発言は以下の通り。発言は、同時に上映したスライドに沿っている。

「誤解」を招いたのは誰か

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 みなさんこんにちは。明日(18日)の総務委で参考人としてお話をさせていただきます。大変荷が重いんですが、できるだけきょうみなさんがお話しになったことをもれなく伝えることができればと思っています。

 多くの方々がおっしゃってるように、子どものレイプ被害者は激減しています。1960年と2000年の比率ですと10:1、10分の1に減っている。年齢別でも減っていて、性犯罪が増えているとか、子どもがどんどん被害にあっているとか、そういう事実はまったくないので、そういう情報が流れればウソ、煽りということになりますね。

 山口弁護士がおっしゃったことですが、第7条プラスアルファですが、非実在青少年に関わる姿勢は、ゾーニングの顔をした表現規制だということですよね。青少年に頒布し、云々かんぬんと描いてあるんですが、これは構成要件が非常に不明確なんですね。構成要件が明確で罰則規定があるほうがまだマシで、構成要件が不明確で、罰則がない。しかも第18条6、まん延抑止規定というやつですね、「青少年視覚描写物をまん延させることにより青少年をみだりに性的対象として扱う風潮を助長すべきでないことについて……機運の醸成に努める責務」を都民全員が負うという。従って7条の努力義務と、責務を合わせると、市民の悪書狩りを奨励する、あるいは非常に恣意的な行政指導を根拠付ける可能性があります。構成要件の不明確なゾーニングは表現規制に限りなく近い。

 これも山口弁護士がおっしゃったことですが、質問回答集は完全に無意味。なぜかというと法理学の基本原則ですが、「憲法は立法意志がすべて。法律は条文がすべて」ということです。福田元首相が「法律の解釈は前内閣に必ずしも引っ張られない」という有名な発言を残したことで知られています。人事異動や議員の改選があれば官僚答弁も付帯決議も法解釈を拘束しません。「条例の解釈の誤解」(と都の担当者が説明していること)は苦笑です。本当はここで爆笑と書きたかったかったんですが……裁判官による「誤解」の可能性を表すからです。その「誤解」を、将来は裁判官がまるまるやるでしょう。

 さらに言えば、誤解の可能性は官僚による裁量行政による権力と権益の余地を意味しているわけですね。どのみち今回の条例改正は、警察庁からの出向官僚が、まあ、警察大好きな石原慎太郎さんが知事である間に手柄を立てて元の官庁に帰ろうというですね、おそらく都民のためを考えたというよりも、自己都合に基づくよくある話なんだろうなと始めから推測しているので、そういう問題にわたしの時間を使いたくないなと思いながら(会場笑い)、しかしまあ、公益に関係するので、ここに来ているということでありますね。市民と裁判官の別を問わず、誤解可能性を完全に防遏(ぼうあつ)したもののみが条文に値するのであって、「誤解である」とか言ってる人では、この条例はもうダメです。

メディアの受容環境の制御こそが最善

 ここから先は少し理屈なんですけれども、「個人的保護法益とは無関係な規制である」ということからまず入ります。

 一般には保護法益、法律が立法される利益は明確でなければならない。なぜかというと、行政権力は社会のためにあるからです。社会が主で行政が従だからです。で、保護法益には個人的法益と、社会的法益がある。つまり個人の、人権保護のための立法と、社会の利益のための立法の2つある。

 実在する青少年を被写体とする表現は、個人的法益を侵害します。この場合の個人的法益とは人権、あるいは人権のベースになる尊厳ですよね。だから、自己決定で子どもが出演していても、将来禍根を残さないようにパターナル、上から目線で介入せよという理屈が成り立つわけですが、非実在青少年の場合には、そうした、人権を侵害される当事者は不在。ですから、表現規制は個人的法益が目的ではない。

 では社会的法益が目的になりますが、社会的法益には一般に2つの考え方があり、人権内在説と人権外在説です。人権外在説は人権に外在する秩序の利益があるとする立場で、刑法175条(わいせつ物頒布など)の公序良俗という概念が典型です。

 一般に、こうした表現規制に人が賛成する場合、とりわけ日本においては、秩序の利益、公序良俗に反するという通念が機能する場合が少なくないと想像されます。社会が成熟するにつれて、大半の先進国は人権内在説にシフトしていきました。つまり人権の実現の両立可能性や共通基盤を焦点化する方向に変わってきた。こうした人権内在説を踏まえると、非実在青少年規定に関わる社会的法益は極めてあいまいで、よく分からない。

 「ありうる理解」の1つは「悪影響論」ですね。改正案の7条の1に「青少年に対し性的感情を刺激し……犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害する恐れのあるもの」を規制するんだと書いてあります。質問回答集を見ると「子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐため」と書いてあります。

 ところが、メディアに悪影響を帰責する「強力効果説」なるものには学問的根拠は一切ありません。学問的に有効なのは、「限定効果」を証明するデータですね。1つはメディアが直接素因、つまり暴力性や性的変態性を形成するということはなく、引き金を引くだけだ、という限定性。もう1つは、対人関係に保護されずにメディアに接触する環境こそが問題だと。つまり引き金を引く場合でも、人と一緒に見るかどうか、親しい人と一緒に見るかどうか、そうしたことで影響が全く異なってくるという実証データがあり、これがポイントなんですね。

 ですから、効果研究から主流学説が推奨するのは、メディアの受容環境の制御こそが最善の策ということなんですね。それができない場合の緊急避難として表現規制があるべきだということです。そうした最善策の努力を放棄していきなり次善の策に飛びつくのであれば、これは完全に行政の怠慢であると言わざるをえない。

既に「意志」は表示されている

 次に、社会的法益に関するもう1つの理解は「社会的意思表示論」という立場です。

 例えば刑事罰の機能については、(1)犯罪抑止あるいは犯罪被害の抑止、(2)被害者や家族、社会的正義の感情的回復、(3)そして「社会的意思表示」、つまり社会の規範のありかを示す──という3つの機能があると言われています。

 で、強力効果説の無効と、実際の被害者の不在ゆえに、(1)も(2)も問題外で、残るは(3)、社会的意思表示がポイントになるんですね。規範のありかを示すために条例があるんだという観点からすると、その描写の対象が実在するかどうかは確かに関係がないわけです。ただその場合には問題が2つあって、代替的な社会的意思表示の手段がないのかどうか、あるいは既にされていないのかどうか、あるいは副作用がどれくらい大きいのか、ということなんですね。

 で、代替的意思表示手段は既に存在するんですよ。質問回答集項目5「これまでも、性的な刺激を強く受けるような漫画などについては、その子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐため、条例により、子どもに売らない、見せないための取り組みを行ってきました」。だったらいいじゃねえかよ(会場笑い)。従来の取り組みで社会的意思表示の実現が不十分だったという証拠は一切ない。そういう世論もないんですね。

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