山車祭りで出動する「からくり人形」の見事な演技……。電気などの動力源を一切使わず、人形を動かす“からくり”のテクノロジーは日本独自のもの。その歴史をさかのぼると、江戸時代を生きたエンジニアたちの熱いマインドによって実現した由来にいたります。そこで今回は、伝説の人物「からくり半蔵」と、日本の“からくり”文化の成り立ちに迫ります。
発明王エジソンが京都産の竹を使って白熱電球を完成させるずっと前から、電力を用いずに動くロボットとして実用化されていた日本の「からくり人形」。歯車の仕組みで作動する“からくり”は、外国の文化をもとに生まれた日本独自の技術でした。
もともと“からくり”の技術は、室町時代に南蛮貿易によって西欧からもたらされた機械式時計(西洋時計)を修理のために分解したことから始まったとされます。西欧の技術を模倣して、より高度な技術へと深め、日本古来の“人形作り”と組み合わさり、独自のユニークな造形へと進化しました。
当初は芝居の出し物や、祭りに使う山車の仕掛けとして作られた“からくり”。その技法は専門の職人だけが有するものであり、師から弟子へと口伝で受け継がれる“秘術”。極めてシークレットなものだったのです。
そのような秘伝の技術を、多くの研究者が参考にできるカタチにまとめた書物がありました。からくり半蔵という人物によって1796(寛政9)年に書かれた、全3巻の技術書「機巧図彙」(からくりずい)です。のちの時代に、日本のロボット工学のイノベーションが起こるきかっけになった書物といわれています。
「機巧図彙」は“からくり”のマニュアルブックであり、その解説は非常に精緻。この本を参考にして実際に人形の制作を実践できる優れものでした。
歯車の仕組みで動く“からくり”は、現代の技術水準と比較すると、だいぶ素朴なものですが、進む方向を転換できる自在な動作は、現代における最先端の制御プログラムを先取りした、非常に高度なものでした。「機巧図彙」は、そのような最先端の技術を惜しみなく伝えるものだったのです。
ところで、「機巧図彙」の著者である「からくり半蔵」とはどんな人物だったのでしょう?
からくり半蔵(実名・細川頼直)は謎めいた人物であり、いまだにその生涯には不明点が多いようです。
土佐藩の郷士の子として生まれた半蔵は、幼少期から儒学、天文学とともに、工作技術に関心をもっていたとされます。30代の頃に、写天儀、行程儀(万歩計)を作成したり、時計の分解を行うなど、独学でからくりの研究を重ねました。
50歳の頃「天下に名をあげなかったら二度と故郷に帰らない」という決意表明を村境の橋柱に書き残し、江戸へと旅立ちます。その後、天文暦学を探求し、幕府の改暦事業にも貢献したとされます。
「寛政暦」の作成に参画しながらも、その完成を目にすることなく1796年に半蔵は死去。彼が手書きで記した「機巧図彙」が出版されたのは、その死の同年のことでした。
半蔵は「機巧図彙」の出版を見届けることなく世を去りましたが、その人生の集大成ともいえるこの書物は、後世に語り継がれる大きな業績と。半蔵の思索の成果は、後の時代の機械工学を学ぶすべての人たちにとって、最もベーシックな入門書となったのです。
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