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東京タワーで“蝋人形”になった伝説のミュージシャンが問う、「ITはロックをコロナから救えるか」(2/2 ページ)

» 2020年07月03日 09時52分 公開
[Masataka KodukaITmedia]
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元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコと共に

――1967年といえば、あなたが伝説のジャーマンロックバンド「アジテーション・フリー」を結成した年ですね。私はプログレッシブロックの熱烈なファンで、レコードコレクターなのですが、80年代、アジテーション・フリーのアルバムはとても高価でした。2007年にアジテーション・フリーは来日公演を行いましたね。アシュラでも来日しました。日本の印象はどうでしたか?

ウルブリッヒ氏 日本にはいつも圧倒されますよ。ドイツと違いすぎます。完璧なオーガナイズ、時間厳守。そして、あまり会話が通じない。

 日本の人々は、私たちの音楽に、とても興味を持っていました。アシュ・ラ・テンペルでの、最初の東京タワー記者会見は、私がこれまでに見た中で最大の記者会見でした。アジテーション・フリーについても多くのインタビューを受けました。ドイツ語の曲ばかりなのに、私のソロプロジェクト、リュールのLPを持っていたファンがいたのも印象的でした。東京タワーろう人形館の館長だった、常連客の藤田元さんに、本当にお世話になりました。日本のおもてなしは、本当に素晴らしいものだと感じました。

 コンサートにはたくさんの日本のファンが来てくれて、素晴らしかった。いや本当に、想像していなかった。また、17ヒッピーズでの1週間の東京公演も素晴らしい経験でした。私たちは俳優・イッセー尾形さんと彼のチームに歓迎され、東京をさまざまな面から知ることができました。また、毎晩いろんなクラブで、自主的に演奏しました。

photo 東京タワーろう人形館にあったウルブリッヒ氏のろう人形。「とても不思議な感じだった! 私はフランク・ザッパとリッチー・ブラックモアの間に立っていて、光栄でした」とウルブリッヒ氏(写真提供:ウルブリッヒ氏)

――≪さて、1973年から1988年の彼女の死まで、あなたはあのヴェルヴェット・アンダーグラウンドへの参加で有名なニコさんのパートナーでした。ニコさんとどのようにして知り合ったのですか?

ウルブリッヒ氏 1973年3月17日、パリの伝統的なオペラ=コミック座で、ニコとアジテーション・フリーの共演ライブがありました。私はニコのオーラにすっかり魅了されました。彼女のようなパフォーマンスをそれまで見たことがなく、とてもユニークで感銘を受けたのです。歌、ハーモニウム、音楽の方向性、そして彼女の神秘的な外観と美しさ。

 ライブ後、共同マネジャーのアサード・デブスさんが開催したパーティーで、ニコは私を別室に誘ってくれました。

photo ポップアートの始祖であり、広告デザインにも多くの偉業を残したアンディ・ウォーホルのデザインによる歴史的アルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」。“クリエティブの訴求力”が必要とされる商業広告、インターネット広告のデザイン手法に彼が与えた影響は計り知れないのではないか?

 73年9月、フランスのクレルモン=フェランで行われたフェスティバルでまた共演し、ニコと親しくなりました。ニコは私をパリに連れて行ってくれました。ベルリンとパリを行き来しながら付き合っていました。

――「悪魔の申し子たち〜その歴史的集会より(原題:June 1, 1974)」というライブアルバムがあります。このアルバムを私は数えきれない回数、30年以上聴いています。このアルバムでは、あなたのパートナーのニコさんの他、ジョン・ケイル、ブライアン・イーノ、ケヴィン・エアーズというロック史に残る素晴らしい4つの個性を味わえるからです。バッキングを担当するミュージシャンは、ロバート・ワイアットやマイク・オールドフィールドなどで、何回聴いても飽きない。ニコさんとお付き合いしていた時代、こういったミュージシャンと出会う機会があったはずですが。

photo ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ソフト・マシーン、ロキシー・ミュージック。60〜70年代、ロックの歴史を変えたバンドで際立つ個性を示した鬼才4人が一堂に会した74年6月1日のコンサート。「アンビエント・ミュージック(環境音楽)」の先駆者であり、「Windows 95」の起動音の作曲者としてITとの関係を見逃せない、ブライアン・イーノはロキシー・ミュージック脱退、初のソロアルバム「ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ」発表後、このコンサートに参加している

ウルブリッヒ氏 たしかにあれはとても素晴らしいコンサートです。しばらくして74年10月5日に、ケヴィン・エアーズ抜きで、ニコとイーノとケイルは、ベルリンの新国立美術館の「メタムジーク・フェスティバル」でその伝説的なコンサートを再現しました。最近、その録画ビデオを見直しましたよ。当時私はニコと付き合っていたので、もちろんその場にもいて、私の12弦ギターをジョン・ケイルに貸したのです。私はケイルとクアフュルステンダムのホテルで朝食のとき出会いましたが、ニコと会うことが目的だったので、少しあいさつを交わした程度です。

 75年、私はアルル円形劇場でアシュ・ラ・テンペル、ニコ、カン、ケヴィン・エアーズと一緒に演奏し、数日間一緒に過ごしました。ケヴィン・エアーズとニコはあまり付き合いがなく、ニコは私たちと一緒にいることが多かったです。 ケヴィン・エアーズ は彼の隣人をステージに迎え、アコースティックな曲を演奏しました。それまで私は彼のことを全く知りませんでした。

 私は75年から79年までニコのギタリストにもなりました。フランス、オランダ、スペイン、そしてアメリカとカナダをツアーしました。

 その後、ニコとジョン・ケイルとさまざまなコンサートに出演しました。特に、ニューヨークのチェルシーホテルに6カ月滞在した思い出が強烈です。ケイルは非常に才能のあるミュージシャンであり、プロデューサーとしても素晴らしいレコードを生み出しています。彼はニコと一緒に、ユニークな素晴らしい作品を作りました。

――あなたは79年、パンク界で伝説となるニューヨークのライブハウス、CBGBでニコとジョン・ケイルとプレイしています。パンクが最も熱かった時代だと想像しますが。

photo 1979年、CBGBでのウルブリッヒ氏、ニコ、ジョン・ケイルの写真(写真提供:ウルブリッヒ氏)

ウルブリッヒ氏 私の最も強烈な記憶ですね、ジョン・ケイルとの共演。いくつかの曲を一緒に演奏しましたが、それは私の音楽人生のハイライトの一つです。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド再結成のようなもので、ファンはとても興奮していました。

 デビッド・ボウイも聴衆の中にいました。ニューヨークはニコを愛し、舞台裏では素晴らしい出会いもありました。 ニューヨーク・ドールズのデヴィッド・ヨハンセンはニコに恋をしているようでした。私はパティ・スミスのギタリストであるレニー・ケイにも会いました。多くの興味深いバンドが演奏しているので、CBGBによく観に行きました。例えば、ザ・ザやプラズマティックスなど。 当時、クラウス・ノミもニューヨークに住んでいたので、よく見かけましたが、残念ながら彼のコンサートには行けなかった。

 その後、ベルリンでジョン・ケイルに何度か会いましたが、実は私たちは本当の友達になったことがなかったのです。しかしニコの死後 91年、ニコの墓に一緒に行く機会がありました。私は彼の音楽作品を最も尊敬しています。

――その他、あなたとニコは、フォーク界の伝説、ティム・ハーディンや、ポリスのギタリスト、アンディ・サマーズがバッキングを務めていたケヴィン・コインなどとも同じステージを踏んでいますね。

ウルブリッヒ氏 ティム・ハーディンには何度か会い、コンサートも一緒に行いました。とても人柄が良く、才能豊かなミュージシャン。残念ながら、彼は長い間麻薬中毒で、若くして亡くなりました。ニューヨークのチェルシーホテルで彼に会い、ロサンゼルスではプライベートで彼を訪問しました。79年にニコは、伝説のウィスキー・ア・ゴーゴーでのコンサートで、ティム・ハーディンに前座での演奏を依頼しました。そしてそれはとても素晴らしい演奏でした。

 ケヴィン・コインとも、先に述べたフランスのクレルモン=フェランで行われたフェスティバルで共演しました。でもニコは彼にはあまり興味がなかった。

――ニコさんがお亡くなりになる直前、彼女は1988年3月に来日公演を行いました。彼女は日本公演の思い出を話していましたか?

ウルブリッヒ氏 残念ながら、あまり知りません。ただ、日本では、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバーバンドが路上で演奏していた、ということを彼女は話していました。

 私にとって、ニコのことを本当にすごいと思う点は(これはジョン・ケイルにも当てはまるのですが)、世界中のあらゆる国に彼女のファンがいる、ということでした。こんなことを達成できたドイツのミュージシャンは、多くないです。

テクノ・ハウスの始祖と再評価されるアシュ・ラ・テンペルで

――74年のアジテーション・フリー解散後、あなたは75年に映画「水晶の揺籠」のサウンドトラックに取り組みました。ニコとマニュエル・ゲッチング(アシュ・ラ・テンペル)も参加しています。現在、ゲッチング氏は「テクノ・ハウスの始祖」と再評価されています。

ウルブリッヒ氏 マニュエルとは12歳のときから知り合いです。同じギターの先生に習っていたのです。私がアジテーション・フリーで演奏、彼がアシュ・ラ・テンペルでプレーしていた時代、「ベルリナー・シューレ(Berliner Schule:当時のベルリン在住ロックミュージシャン一派を指す言葉)」の中心となったビート・スタジオ・ベルリンでよく顔を合わせました。

 私たちはいつも互いの音楽に共感していたので共演の機会も多かった。 74年にはアジテーション・フリー解散後フランスに住んでいたのですが、マニュエルの「Inventions for Electric Guitar」を聞いたとき私は興奮してベルリンに戻り彼とリハーサル。私たちは12月6日、パリで初めてのコンサートを行いました。その後、アシュ・ラ・テンペルとして、そして後に「アシュラ」として長年にわたって彼と演奏しています。

photo マニュエル・ゲッチングが74年録音した「Inventions for Electric Guitar」。アシュ・ラ・テンプルの音楽には、現代のテクノ、ハウスなど音響・コンピュータ技術を活用した音響演出のアイデアが凝縮されている

 当時ニコは映画「水晶の揺籠」の音楽担当者を探していたフランスの映画監督フィリップ・ガレルと一緒に住んでいたので、アシュ・ラ・テンペルが映画に音楽を提供したのは当然の成り行きでした。 80年代には、マニュエルはクラウス・シュルツェへの個人的なプレゼントとして、1時間ほどのレコーディングを行いました。まさに、即興的グルーヴというテーマしか持たない、テクノミュージックの青写真でした。これは後に、マニュエル名義のソロアルバム「E2-E4」としてリリースされました。

 75年には、アシュ・ラ・テンペルでこの種の音楽をデュオで演奏しました。ギブソンのギター2本で。マニュエルはビグスビー製アーム付きギブソンSGデラックス、私はギブソンSGスタンダードを演奏。たまにオベーションの12弦ギターも使ったかな。エコーにはルボックスのテープレコーダーを使用しました。当時、速度は2種類しかありませんでした。その機器は後にバリオスピード機能を持ち、エコー時間がコントロール可能にしました。マニュエルはまた、ファルフィッサのコンパクトオルガンを演奏しました。

 当時非常に人気があり、特にオルガンサウンドに使用されていたベルリンの電子工学エンジニアによる、いわゆる“コンパクトフェイザー”も持っていました。マニュエルはモーリーのワウワウペダルと、ビッグ・マフのディストーションも使っていました。当時ギタリストにとって究極の選択とされていた、ギターシンセサイザー、ハイフライを私は購入しました。

 その後、エルカのキーボード、クリストファー・フランケ(アジテーション・フリーとタンジェリン・ドリームに在籍)からシンセサイザーのEMS Synthi Aを購入しました。ファルフィッサのシンセオーケストラも追加されました。 70年代末、マニュエル・ゲッチングは簡易なシーケンサー(Eco Rhythmus Computer)とARPシンセサイザーを持っていました。デュオ形態では、マニュエルと私は4つの大きく重いファルフィッサ・ボックスを演奏しました。これは同時に私たちのPAとしても機能していました。このような音響技術を使って、アシュラの音楽を創ったのです。

デビッド・ボウイとブライアン・イーノが居たベルリン

――ロックの歴史とベルリンの関係について考えるとき、まず、デビッド・ボウイの 「ベルリン三部作」、77年から79年にかけてのボウイのアルバム、『ロウ』、『英雄夢語り(ヒーローズ)』『ロジャー(間借人)』を忘れることはできません。"Low"と "Heroes"はベルリンのハンザ・スタジオで録音され、ブライアン・イーノ、トニー・ヴィスコンティなどが協業しました。

 また、ブライアン・イーノは77年にドイツのバンド「クラスター」と一緒にアルバム(「クラスター&イーノ」)を録音し、多くのドイツのミュージシャン、カンのドラマー、ヤキ・リーベツァイトやクラスターの2人などが彼のアルバム(「ビフォア・アンド・アフター・サイエンス」)で演奏します。当時、イーノやボウイとベルリンで会いましたか?

photo イーノの77年のソロ作品、『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』(Before and After Science)。ドイツのミュージシャン、ヤキ・リーベツァイト、ディーター・メビウス、ハンス・ヨアヒム・レデリウスが参加している

ウルブリッヒ氏 はい、私たちベルリン市民にとって、ボウイとイーノがベルリンにて素晴らしいレコードを制作し、ここに数年間住んでいたことは素晴らしい事件でした。

 同時代、私はニコとベルリンに住んでいましたが、ボウイやイーノには会えませんでした。彼のアパートを偶然訪ねたことがありますが、外出中でした。その後、カーネギーホールの楽屋でデビッド・ボウイと会うことができました。ジョン・ケイルがラジオ局のためのチャリティーイベントを企画し、ボウイがボランティアで参加したのです。ファンは大喜びでした。

 クラスターとは、アジテーション・フリー在籍時代、72年のミュンヘンオリンピックで知り合いました。ある校舎で2週間近く一緒に暮らし、友人になりました。彼らのフォルストのスタジオに行ったこともありますよ。

 フランスでカンと合同でコンサートしたので、ヤキ・リーベツァイトも知っています。時々コンサートで彼に会いましたが、あまり深い知り合いにはなれなかった。でも、カンのミュージシャン、イルミン・シュミットは特別な人物でした。ベルリンのグロピウス・バウで、2000人の観客を前にトリオでカンが即興演奏したコンサートを、今でも覚えています。彼らはいつもとてもオープンで、新しいことに興味を持っていました。カンは素晴らしいバンドです!


 コロナ禍においては、ブライアン・イーノが弟のロジャー・イーノと行った試みが、筆者にとって最も興味深く映った。ロックダウン状況下におけるファンの静かな日常風景を撮影、投稿してもらい、ミュージックビデオを創ろうとする試みだった。

 72年のロキシー・ミュージック時代から「ノン・ミュージシャン」と自称し、エリック・サティの「家具としての音楽」という思想を延長した「アンビエントミュージック(環境音楽)」をベルリンでのクラスターとの協業の後、明確に打ち出し、Windows 95の起動音や、ロンドンの空港などで、実際に“気付かれなくても、そこに空気のように、家具のように存在している音楽”を創り続けてきたイーノ。彼の姿勢は半世紀もの間、全くブレないことに、筆者は感動を覚えた。個人的にはアンビエント・コンピューティングの思想は、イーノの姿勢と似たようなものだと思っている。

 このイーノの試みについて、ウルブリッヒ氏に聞いたところ、「残念、もっと早く知っていたら、私は絶対に映像を送っていたのに! とにかく、教えてくれてありがとう」との返事。半世紀、音楽家として生きてきたウルブリッヒ氏は、ロックダウン中、IT技術のいいところを実に素直に認め、それを存分に活用しようと試みつつ、音楽活動を続けていた。彼のロックダウン中の試みから学べるものは、非常に多い。

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