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ノイズがある量子コンピュータをどう使いこなすか 慶應大が金融や化学、AI分野の研究成果を発表

» 2020年12月09日 14時00分 公開
[星暁雄ITmedia]

 慶應義塾大学を拠点として、米IBMの量子コンピュータの実用化を見据えた産学連携の研究が進んでいる。慶應大はこのほど、慶應義塾大学量子コンピューティングセンターの最新の研究成果を発表した。金融や化学、暗号、AIなどの分野でノイズのある量子コンピュータを活用する手法を考案した。

「今の量子コンピュータは幼稚園で運動会をやっている段階」

 慶應大とIBMが2018年に慶應義塾大学量子コンピューティングセンター内に設立した「IBM Q Network Hub」は、IBMのワトソン研究所が保有する量子コンピュータ「IBM Q」を活用する研究拠点の一つだ。

慶應義塾大学量子コンピューティングセンター内の「IBM Q Network Hub」

 IBM Q Network Hubの意義について、慶應大の伊藤公平教授(量子コンピューティングセンターファウンダー)は「量子コンピュータの実機を使う研究は、IBM Q誕生以前はなかった」として、IBMが開発する量子コンピュータの実機を使った研究ができる環境は貴重であることを強調した。

 「実機を使う研究は子育てのようなもの。装置の成長を肌身で感じることができ、これは子どもの体の成長を感じることに相当する。量子アルゴリズムやソフトウェア開発は子どもの教育に相当する」と説明。「今の量子コンピュータは幼稚園で運動会をやっている段階だが、やがて成長してオリンピックで世界のトップを競うようになる」(伊藤教授)

 IBMは、同社の量子コンピュータは性能指標QV(Quantum Volume、量子体積)での計算で「1年で2倍」と急ピッチの性能向上を実現していると説明している。半導体プロセッサが「ムーアの法則」に従って急ピッチで性能向上を続けたことにより、コンピュータやデジタルデバイスの利用範囲を広げたように、量子コンピュータの進化が未来のコンピューティングを変える可能性があるとしている。

IBMの量子コンピュータは1年で2倍の性能向上を目指し、2017年から20年まで毎年達成している

金融、化学、暗号、AI、システムの各チームが成果発表

 今回研究成果を発表したのは、金融、化学、暗号、AI、システムの5分野のチーム。各チームの研究を紹介する。

金融チーム:モンテカルロ計算でデリバティブ価格を評価

 金融チームは、金融派生商品(デリバティブ)価格評価を、IBM Qのシミュレータおよび実機により検証する取り組みを行っている。金融分野のデリバティブの価格の評価では、未来のさまざまな価格変動のシナリオを考慮してモンテカルロ計算を実施するが、莫大な計算量が必要となる。

 そこで量子コンピュータの「重ね合わせ状態」を使い、さまざまな未来のシナリオを同時に計算しようというのが基本的なアプローチだ。ただし、現在の量子コンピュータはノイズの影響を受け、量子ビットにエラーが発生する。このエラー訂正技術が未発達のため、エラーのない理想的な量子コンピュータを仮定した量子アルゴリズムをそのまま使っても本来の性能は発揮できない。

 金融チームは今回、ノイズに強いアルゴリズム開発に成功した。量子アルゴリズムを短いアルゴリズムに分解して並列的に実行し、古典コンピュータで後処理(最尤推定)する手法を提案した。既存手法に比べ量子演算の回数、量子ビットを大幅に減らせるという。成果を発表した論文はすでに30件以上引用されている。

化学チーム:リチウム空気電池、新有機ELの新素材を解析

 化学チームは、IBM Q実機を使ってリチウム空気電池や有機ELのための新素材を開発するべく、化学反応計算に取り組んでいる。

 化学物質の状態は、シュレディンガー方程式で表される電子の状態に帰着する。そのため電子状態を精密に計算・制御できれば革新的な新材料を設計できる可能性がある。しかしシュレディンガー方程式を精密に解くのは、従来のスーパーコンピュータをもってしても困難とされてきた。

 この課題に対して化学チームは、化学計算に活用できる量子アルゴリズムの一つ「VQE」(変分量子固有値法)を使って取り組んだ。19年度は次世代の電池と期待されるリチウム空気電池、20年度は高効率の有機EL発光体「TADF材料」を題材に選び、アルゴリズムの工夫などをして解析に取り組んだ。

暗号チーム:暗号方式の安全性評価

 暗号チームは量子コンピュータの存在を踏まえた既存の暗号アルゴリズムの安全性評価などを行っている。量子コンピュータを使う「モジュラー加算」を既存手法に比べてパフォーマンスを3〜5倍改善する新手法を提案した。今後は楕円曲線暗号を量子コンピュータで解読する場合の困難性の解明などに取り組む。

AIチーム:機械学習関連の新アルゴリズムを提案

 AIチームは機械学習による分類・回帰問題について、IBM Qのシミュレータや実機を使って検証を進めている。機械学習では学習モデルの作成で大きな計算量が必要なため、この部分を量子コンピューティングで置き換える研究があるが、この分野では量子超越(古典コンピュータより量子コンピュータの方が性能が上回ること)の理論保証はまだない。そこで問題の「目の付け所」が重要となる。

 同チームは、データ分類について2種類、サンプリングと時系列解析についてはそれぞれ1種類のアルゴリズムを提案。これらの新手法では「量子コンピュータで古典学習器をきたえる(学習させる)」「量子コンピュータのノイズをあえて利用して複雑な信号処理を実現する」といった考え方を取り入れているという。

システムチーム:ノイズがある量子回路での計算手法を提案

 システムチームは、抽象量子回路と実機を結ぶソフトウェアを開発している。理想的な状態を仮定した量子アルゴリズムと、ノイズがある現実の量子コンピュータの隙間を埋める取り組みといえる。回路規模の削減や、量子コンパイラ(量子コンピュータの計算資源を有効活用する最適化手法)の新手法を提案した。

 量子コンパイラには一つの課題があり、過剰な並列化を施した際に、計算させる量子ビットの配列が物理的に近すぎるとクロストーク(量子ビット間のノイズ)によりエラーが増加してしまう。提案手法ではこのノイズ特性を考慮に入れている。

ノイズがある現実の量子コンピュータを使いこなす

米IBMのワトソン研究所内にある量子コンピュータ「IBM Q」

 今回の発表で何回か登場したのが「NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)デバイス」という言葉だ。「ノイズがある中規模な量子デバイス」という意味で、これは今の量子コンピュータそのものを指す。

 量子コンピューティングは、デバイスの量子状態を活用して計算を実行する。理論上は「量子重ね合わせ」により効率的に計算できるはずのアルゴリズムが、現実のデバイスではノイズによるエラーのために性能が出ない場合がある。ノイズがある現実の量子デバイスを使いこなすことが、量子コンピュータの実機を用いる研究の大きなテーマとなっていることがうかがえた。

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