「東京2020オリンピック」開幕前に相次いだ関係者の辞任/解任騒動。中でも開閉会式の音楽を担当するはずだった小山田圭吾氏(コーネリアス)の過去の話は衝撃的で、憤る人は多い。しかしこの機会に乗じていわゆる「叩き」へと走り、その対象を本人以外にも広げる動きには疑問を感じた。
確かに小山田氏のケースは異質だった。子供時代に障がいを持つクラスメイトに苛烈な暴力を振るっただけではなく、メディアに対して自慢話のように繰り返し披露し、問題が指摘されても何もしない。忘れていたのではなく、大人になっても自らを省みる必要性を否定してきたのだから辞任は因果応報といえる。
一方、いじめ加害者を批判する側もエスカレートすると無意識に自分自身がいじめ加害者になってしまう危険がある。ネットに匿名性(完全ではない)がある限り、炎上に面白おかしく参加したり、普段から感じている不満をぶつける人は後を絶たない。
しかしそうした意見を助長するのは正義感や使命感が強い普通の人達の小さな憤りだ。いじめを憎むなら、いじめの連鎖を作ってはならないはずなのに、意図せず足を踏み入れてしまうこともある。
背景には多分に情報不足という面がある。例えば「詳細は不明だが、大筋の事実関係の辻褄が合う」という場面では、本来結論を出すことはできない。しかしネットでのコミュニケーションに情報不足は付きもの。情報不足と知りながらなんとなく相づちを打つ状況も多い。
しかも裏付けなしの情報や想像で背景を少し脚色したような情報、場合によっては誰かが恣意的に流した偽りの情報まで、ネットではあたかも事実のように伝わってくる。いつしか事実が確定しているかのような錯誤を生み出し、作られた結論を元にネット上での私刑(リンチ)が始まることも実際にあった。
1999年、コメディアンのスマイリーキクチさんは、突然ネットで殺人犯だと決めつけられ、大変な苦労をした。きっかけは「2ちゃんねる」(当時、現在は5ちゃんねる)で「犯人に似ている」と書き込まれたこと。匿名掲示板にもっともらしい傍証が繰り返し投稿されて広がった。事実無根の情報を発信していた19人が摘発されるまで、実に10年という年月が必要だった。
2016年、俳優の西田敏行さんは「覚醒剤を使用して日常的に暴力をふるっている」などという匿名ブログの情報が元で激しい中傷を受けた。警察による捜査の結果、2017年に3人のブロガーが摘発されたが、彼らは西田さんと関係はなく、単にアクセス数を稼いで広告収入を増やすため、虚偽の記事を掲載しただけだった。
このときもブロガーの記事を広め、西田さんを批判した人は無数にいた。全体像を把握するために必要な情報が明らかに欠落していたにもかかわらず、直情的に反応し、当人は正義だと思って一方的な誹謗中傷に加担してしまった。
小山田氏の一件は2つの方向に広がりを見せた。1つは小山田氏の制作チームから外す動きに抵抗したクリエイターがいたという報道に対し、その犯人探しと糾弾に走る動き。もう1つは小山田氏の親類に対して矛先が向いたことだ。
いとこにあたる音楽プロデューサーは、小山田氏の辞任を求めてきた人たちに対し、SNS上で辞任ニュースへのリンクを貼り「はーい、正義を振りかざす皆さんの願いが叶いました、良かったですねー!」とツイートしてしまった。本人はすぐに誤りに気づき、間もなくツイートを削除した。
しかし画面キャプチャーが流れ、スポーツ紙のWebサイトなどで報道されて炎上。本人だけではなく家族や仕事上のパートナーにまで影響が及んだ。
発言は確かに不用意だったが、叩いていた人達は背景をどれだけ知っていたのだろう。断片的な情報はあっても詳細は知りようもない。発言がどのような感情から出たものなのかも不明だ。分かるとすれば、彼が発言したことを悔いていることくらいだろう。
一度このような立場になった人は反論したくてもできない状況になる。否定すべき事実も曖昧(あいまい)なまま、一方的にSNS上で攻撃的な言葉を浴びせられる。いじめの構図と何ら変わらない。
因果応報とは不用意な行動や発言がいずれ我が身に降りかかり、大切なチャンスを失うことだ。わき上がった感情にまかせて発信しているといつか自分に跳ね返ってくるかもしれない。そう想像するだけでも発信する言葉は変わってくるのではないだろうか。
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