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人はなぜ“言わなくてもいいこと”を言ってしまうのか 「日本人の国民性調査」からネット炎上が止まらない背景を探る小寺信良のIT大作戦(1/3 ページ)

» 2021年08月17日 11時12分 公開
[小寺信良ITmedia]

 メンタリストDaiGo氏だけではない、後を絶たない「うかつな発言」によるネット炎上。こうした発言とそれに対するリアクションが生まれる構造を、小寺信良さんはフィルターバブルのさらに先、「逆マジックミラー号」の中で踊ることに例える。


 「メンタリスト」として、人の深層心理に基づいたさまざまなイリュージョンを見せてくれるDaiGo氏が、YouTubeで生活保護受給者や路上生活者(ホームレス)に対する差別発言をしたとして、波紋が広がっている。13日には一度謝罪動画を公開し、翌日には謝罪内容を訂正、改めて謝罪を発表している。

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 ネットでは今もなお、言わなくてもいいことをわざわざ言って炎上するケースが山ほどある。特に政治家などは、ライブパフォーマンス、いわゆる「現場のウケ狙い」で発言し、言質を取られることが多い。国会議員は憲法51条により、両議院内で行った発言は院外で責任を問われないという免責特権があるが、院外での発言は当然責任が問われる。

 昔は院外の演説や講演会での話をいちいち記者が立ち会ってチェックなどしていなかったので、リップサービスやパフォーマンスとして際どいことを言って場を盛り上げる政治家は数多くいた。だが誰でも動画や録音ができて、すぐにネットにさらされる時代に、政治家も「オフレコ」が通用しないことを学んだ人も多い。まあ学ばない人も多いのが問題ではあるのだが。

 まず大前提として、憲法19条では、思想及び良心の自由を保障している。これは、人は頭の中で何を考えたとしても罪に問われないということである。ある一定の事柄を考えることすら国家が禁止するとなれば、洗脳も可能となってしまい、自由主義国家の根幹に関わるからである。

 従って、生活保護受給者や路上生活者に対して差別的な感情を持ったり、差別的な意見を頭の中で考えたりするだけでは罪には問われない。心の中は完全にフリーダムである。そもそも表明していないので、外からは誰も分からないわけだが。DaiGo氏が言うようなことを頭の中で思った人がいても、それは罪にはならない。

 その考えを外に出してしまうと、それは「思想」ではなく、「表現」となる。そこから先は憲法21条における「表現の自由」の問題に切り替わる。何かの考えを発表する前に国家が差し止めることが「検閲」であり、これも同じく21条で禁止されている。つまり何かの考えを「表現として表に出すこと」は、事前に差し止めはできないし、「表現すること自体」が法的な罪に問われることはない。

 だが「表現の自由」は、その表現内容が社会通念上から非難されないことや、社会的制裁を受けないことまでは保障していない。そもそもどんな考えでもいったん表現として表に出してみないことには、みんなで議論して正しい結論にたどり着けないからである。「表現すること自体」を罪に問うべきではないが、表現された内容はまた別の話である。

 だから、DaiGo氏の考え方に多くの人や団体が異を唱える行為は、その表現されたものに対して一種の社会的評価がなされたということである。そのような考えは「これこれこういう理由でよろしくないでしょう」ということで、訂正なり撤回を求めたり、正しくはこうであったとの表明を求めるのはアリだ。だが過剰に謝罪を求めていく姿勢は、問題の本質を危うくする。さらにその親族にまで「謝れ」というのは、完全に筋が違うだろう。

 多くの場合、謝罪と訂正・撤回はセットである。謝罪は「気が済む」ことがメインであり、根本的な解決は訂正や撤回の方にある。「言い方が悪かったようで、不愉快に思われた方がいれば謝罪する」という言い回しは政治家から何度も聞いているが、これは発言の内容については何一つ訂正・撤回しておらず、「感情的に傷ついた人がいるなら悪かったね。でも言ってることは変わらないからそのままGoでよろしくね」という意味だ。

 過剰に謝罪を求めていくと、謝罪こそが目的になってしまう。表現の訂正・撤回もない謝罪を、「よし、打ち負かしてやった。今日も正義が勝った」と留飲(りゅういん)を下げるだけで、問題は積み残したままだと気付けない人やメディアは多い。

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