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3Dプリンターは“悪者”ではない──銃撃事件から考える「技術との適切な接し方」(2/3 ページ)

» 2022年07月12日 15時00分 公開
[西田宗千佳ITmedia]

技術を学ぶとは「一線」を知ること

 とはいえ「一切の責任がない」と考えるのは、本当に正しいのだろうか。

 一定の技術・能力があれば、たいていのことはできる。前述のように、ちゃんとした知識と技術があれば、銃器を作ることも難しくない。そして、3Dプリンターはその技能習得に関するハードルを下げる可能性が高い。

「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」

 これは、アメリカの銃器関連団体である全米ライフル協会の有名な主張である。筆者はこの主張が100%正しいと思っていない。確かに道具は人を殺さないが、鋭いナイフを持っている時とペーパーナイフを持っている時では、当然周囲の扱いは変わってくる。

 技術の進化は常に「なにかのハードル」を下げるものであり、その結果として危険性が増すこと、手にした道具がなにをもたらすものかは、理解しておかなければいけない。

 技術を学ぶとは、単純に「できる」ようになることではなく、応用例を含め、その先でなにが起きるのかを予測できる知識を身につけることも含んでいる、と筆者は考えている。正しく学び、理解していれば、その「一線」をちゃんと理解できるはずだ。

簡単になっても守るべき「一線」

 そういう意味で、「学ぶ」過程がどうなるのか、はより重要になってくる。

 危険なものを扱うには一定のルールが必要だ。法律で免許などの取得が義務付けられているものは、正しい知識が必要な「危険物」であることを示している。

 昔から、そうした知識は系統だてた書物の形で流通し、流通が難しい場合にはアングラな文書の形をとることもあった。

 それがWebになり、アクセスが容易になったことで、危険性や責任を学ぶ段階を飛び越えて「手軽に学んでしまう」人が増えた。これまた1つの現象である。

 結果として現在のWeb検索では、特定の情報が出てきづらくなった。情報は文字から動画になり、検索で単純に規制するのはまだ難しい状態である。検索に出ないようにすることはある種の規制であり、本来はない方がいいとは思う。筆者は規制反対派だ。だが、社会が無条件に全てを許すわけでもない、という事情も考えるべきだ。

 「技術と人の間で引かなければいけない一線」とは、規制をむやみに超えないこと、その結果として他人に危害を加える可能性を減らすことではないか。今手にしているのが鋭いナイフかペーパーナイフか、といった認識に近い部分こそが、「一線がどこか」を把握する技術ではないかと思う。

 ネットに情報を出すことは、個人としての楽しみや利益などにつながっている。それを否定するものではないが、「一線がどこか」は考えておくべきである。

 情報によれば、犯人は「ネット動画から銃を自作する方法を知った」というが、そのようなネット動画をアップした人は、3Dプリンターよりもはるかに直接的に「原因」に近く、筆者としても一切の好感を持ち得ない。

 3Dプリンターにしろドローンにしろ、新しい技術を危険視し、時には規制が加えられる。新しい技術を愛するものとして、そうした流れは悲しいしつまらない。「一線を認識しなかったごく少数の例」で可能性を摘むのは良いことと思えない。文字情報にしても、ちょっと手を加えれば、ネット検索の規制を飛び越えることができる。本気で誰かを害しようとする人を、規制だけで止めるのは難しい。それができるなら、過去のテロのほとんどは起きていないはずだ。

 とはいえ、使う側が「他人に危害を加えない」という一線を理解した上で、利用と情報の活用について自制的であるべき、とは思う。誰かを害する目的で一線を超えた人への罰は厳密化されるべきかとは思うし、利用ではなく「許されない線はどこか」「それを守らないとどうなるか」の周知は徹底すべきだ。その気がないのに一線を超えてしまうことを防止した上で、「本気で超えてくる人々」は取り締まりや警備などで対処するしかない。

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