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「ネット」という閉じた楽園で、人は“ウソ”をのむ小寺信良のIT大作戦(1/3 ページ)

» 2022年09月28日 11時00分 公開
[小寺信良ITmedia]

 9月15日に日本経済新聞社が報じたところによれば、米国のメディア格付け機関「NewsGuard」が、TikTok上で流れている動画の約20%に虚偽や誤情報を含んでいる可能性があるという報告書をまとめたという。

「NewsGuard」のレポート

 ま、そらそやろ的な話である。TikTokは誰でも動画投稿できる単なるプラットフォームであって、報道メディアではない。とはいえ、どうしても中国資本のサービスを排除したい米国にとって都合のいいデータではある。

 ただ、このニュースは色々な意味で示唆に富む。例えば「事実」とは何か。車と歩行者の交通事故を例にとれば、運転手から見た真実と、歩行者から見た事実は異なる場合がある。では事故を目撃した第三者の証言は信用に足るのか。見ていた角度や状況によって、またそこでも見えていた事実は異なるのではないのか。現場に居合わせた当事者だけでも捉え方の異なる事実が複数出てくる中、報道メディアは誰から見た事実を伝えるべきなのか。

 放送法第四条では、放送番組の編集等として、以下のように定めている。

第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 ここで注目すべきは、「放送番組の編集に当たつては」と明記されているところである。つまり編集ではウソがつけることに、あらかじめくぎを刺しているといえる。編集とは、時間をかけて複数の要素をつなぎ合わせ、1つにまとめる作業である。そこには、誰かの意志が介在する。

 筆者は1984年からテレビ番組の編集者としてマスメディアで働き、現在に至るまでメディアの仕事をしている立場だが、「話を伝える」には必ず「人の解釈」が介在しており、伝え手のバイアスはどこかしらに入ってしまうと考えている。若い頃から客観性を持て、と良く言われてきたものだが、第三者だからこそ、簡単にバイアスがかかってしまう。

 人は対立するものを見れば、本能的に優劣を付けたがる。興味関心のないスポーツ中継を見てても、どちらも公平に応援する、あるいはどちらも応援しないということがとても難しいのと同じである。

 報道機関でさえ、事実を伝えることは難しい。誰にとっての事実なのかで、基準を誤ることがあるからだ。だから世の中にニュースとして出る前に、複数人でチェックする仕組みがある。

 ましてや、メディア人として経験もトレーニングも積んでいない一般市民が誰でも投稿できるプラットフォームに、ウソがあるだのないだのと語ることには、意味がない。「ネットにウソの情報を流してはいけません」は情報モラルとしては語れるが、いち個人が「事実であること」を客観性を以て保証することは難しい。

 事実ではないとしても、本人が信じていれば、それは本人にとっては事実になる。だから、事実と事実、正しさと正しさぶつかったり、相反することがあり得る。宗教が絡む問題が簡単に解決できないのは、そうした背景がある。そもそも宗教とは、争いを諫めるための思想体系であり、真実と共に生きる事を勧めるものであるはずだったのに、だ。

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