この人がいなかったら、G-SHOCKは世に出なかった――田副美典さんG-SHOCK 30TH INTERVIEW(1/4 ページ)

» 2012年12月21日 11時53分 公開
[吉岡綾乃,Business Media 誠]

 1983年に発売された初代G-SHOCK「DW-5000C-1A」は、「PROJECT TEAM Tough」という3人の開発チームの手で作られた。3人のうちの1人、設計を担当した伊部菊雄氏(インタビュー)は、DW-5000C-1Aの発売時に、通称「タフプロジェクトモデル」と呼ばれる記念モデルのG-SHOCKを10台だけ作り、初代G-SHOCKの誕生に関わった人たちにプレゼントしたという。

 その貴重なタフプロジェクトモデルのうちの1台を持っているのが、当時カシオ計算機に新卒入社して4年目、営業本部の若手社員だった田副美典さんだ。開発や商品企画に携わったわけではない田副さんがタフプロジェクトモデルを持っている理由、それは「彼がいなかったら、G-SHOCKはなかったかもしれないから」だという。当時の話を聞きに、田副さんを訪ねた。(聞き手、吉岡綾乃)

こんな時代に逆行した時計、売れるわけがない

田副美典氏。カシオ計算機で腕時計、電卓の営業企画を担当した後、広報部長を務めた。現在はカシオビジネスサービス 羽村支店支店長

 初代G-SHOCKが発売されたのは1983年だが、日本でG-SHOCKブームが起きたのは1995年ごろ。発売されてから12年間もの間、G-SHOCKは「ほとんど売れない商品」だった。

 1980年代の日本で、腕時計といえば「薄くて軽い」がステータス。しかし厚くてゴツくて重かったG-SHOCKは、すでに商品企画の段階で「こんな時代に逆行した時計、売れるわけないだろう」と社内の営業担当からハッキリ言われてしまうような製品だったという。

 当初1000本くらい作ればいいか、という話だった初代G-SHOCKを、田副さんは3万本以上生産する方向で調整。1年かからずに完売したために、翌年以降も新モデルが企画・発売されることになった。田副さんがいなかったら、G-SHOCKはおそらく初代モデルだけで消え“幻のモデル”となっていたはずだ。なぜ社内で「売れない」と言われていたG-SHOCKを大量生産することができたのだろうか?

――初代G-SHOCKの発売当時、田副さんはどんな仕事をされていたんですか?

田副 当時私は、営業本部の営業管理室というところにいました。あの頃のカシオは五本部制になっていまして、開発本部、技術本部、生産本部、営業本部、総務本部の5つの本部に分かれていました。

 営業管理室というのは、開発・技術・生産・営業本部の4つの本部の間の調整をする部門なんです。(カシオ製品の)商品ラインアップとか生産数とか販売価格とか、そのあたりをすべて決定する部署です。1979年に入社して、翌年から時計担当になったんですが、営業管理室にいたものですから、どれくらい生産して販売するか、といった決定に関わることができたんです。まだ入社2〜3年の新米なのに、商品企画会議も生産数量を決める会議も、価格審議会議も、すべて出させていただいてたんですね。

 私とG-SHOCKとの出会いは……1980年頃ですかね。当時まだ「G-SHOCK」という名前が決まっていなくて、たしか「タフネス」だったと思いますが、そんな仮称がついていました。商品企画会議に出たときに、ラインアップ表に書かれたタフネスという名前を初めて見ました。10気圧防水、10年寿命、10メートル落下(しても壊れない)というコンセプトで「トリプル10」って書いてあったんですね。これがラインアップ表の上に、点線で書かれていたので、不思議に思ったのです。

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