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デジタル化で鮮明になった「映像表現の時差」気紛れ映像論(2/2 ページ)

» 2004年02月12日 20時37分 公開
[長谷川裕行,ITmedia]
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 瞬間を写し取るとは言うけれど、撮影者が「!」と感じた瞬間を完璧に(タイムラグなしに)写し取れるカメラなど存在しない。一眼レフに至っては、シャッターを切った瞬間の映像をファインダー越しに見ることさえできないのだ(*5)。

瞬間は共有できない

 さて、ここからが本題。タイムラグの問題をさらにを拡大していけば、撮影してから作品として発表するまでの時間――という問題に行き当たる。横山まさみち氏の連載が、まさにそれだった。

 新聞社のカメラマンはデジカメとノートPCと通信カードを使い、撮ったその場で画像データを社に送信している。昼間に行われたサッカーの試合結果と決定的なゴールシーンの映像がその日の夕刊に掲載されるのは、まさにデジタル化のお陰である。

 しかし、どんなに手早く処理をしたとしても、撮影から発表までの時間をゼロにはできない。人間の処理を極限まで短縮したとしても、電子の速度(電子が情報を伝達する速さ=電界変化の伝わる速さ――秒速28万キロメートル)を超えることは不可能だ(*6)。

 われわれは、決して「瞬間」を万人と共有することができない。事象を「捉える」行為は、捉えた結果を「伝達」することで完了する。撮っただけでは意味を成さない。そう考えると、「瞬間」を捉えることのできる写真も、最終的には(さっきまでは“今”だった)過去を伝えることしかできない――という結論に至る。

テクノロジーが“時差”を縮める

 「写す〜発表する」という行為は、過去の感動をできるだけ多くの人と共有したいという欲求の発動である。少なくとも、写真展を開催したり写真集を制作・配布するという行為には、そのような動機が存在した。

 発表の場がギャラリーや本という公共性の高いものであるため、発表する「作品」にはそれなりのクオリティが求められる。単に光学的・技術的なクオリティだけではなく、膨大な映像の中からの選択や編集の作業に対するクオリティも必要だ(写真は他の美術と異なり、コレクションの「取捨選択」で成立する)。そのための作業時間が、撮影から発表までの“時差”となる。

 翻って「今どきの写真」である。街で見かけた「!」とくる光景を携帯電話のカメラで撮影し、その場で友達に送信できる。あるいは自身のWebサイトに掲載できる。これは、例えばL判にプリントした旅行の(銀塩)写真をアルバムに張り、友達に見せるのとは全く質の異なる行為だ。こうした画像の「公開」は、新しい形の「発表」なのである。

 現像〜プリントのプロセスを経ることもなく、(Webの場合は多少手間をかけることになるが)いとも簡単&短時間に――取得した映像を発表・公開できる――のだ。そこに“取捨選択」のプロセスはほとんど介在しない。

そもそも「発表・公開」とは何か?

 友達にメールで送信するのが「発表」なのか? Webサイトは個展会場とは違う。――さまざまな異論が聞こえてきそうだ。しかし、客(その多くは友人知己や写真関係者)に個展会場まで足を運ばせるだけが発表ではない。自費で作った写真集を身内に配るだけなら、コミケで同人誌を売る方がマシなように思える。

 作品が1万人に見られるか10人だけなのかということは、発表する行為や発表した作品の内容にいささかも影響しない。写真を掲載したWebサイトに100人しか来なくても、不特定多数の人に対する発表である。自費出版の写真集を1000部作っても、単なるマスターベーションに終わるかも知れない。

 Webやデジカメ、そしてカメラ付き携帯の出現によって、「制作〜発表」の形態もその意味も、大きく変わりつつある。

どうせ時差はあるんだからね

 われわれにとって「今」とは、どんなに努力しても光または電子(同じだが)の速度――秒速28万キロ――で伝達される情報に依っている。たとえその距離が30センチだろうと50キロだろうと、離れた個体間に「同時はあり得ない」と捉えてもいいし、あるいは、距離に応じて発生する「時差こそが同時」であると捉えてもいい。

 さらに、手作業を加えて作品を創るとなれば、その伝達速度は「光の速度」から人間の「手の速度、肉体の運動速度」へと大幅にスピードダウンする。デジタル画像を光の速度で送信しようが、フィルムを現像所に出して現像し、それを暗室でプリントして……とアナログですべてを処理しようが、「どうせ時差があるんだからね」と考えれば「ドングリの背比べ」なのだ。

創作はコレクションと選択の過程にある

 アナログに対するデジタル処理の優位性は、即時性(事象の発生からそれの伝達までの時差を可能な限り短縮できる性質)が優先される報道や、ライティング効果などをその場で確認できるスタジオ撮影などの分野で最も顕著に発揮される。

 しかし、ここで取り上げているのは「アートとしての写真」である。そこでは、光の速度を云々しなければならないほどの即時性は求められない。アートとしての写真は「一枚の絵を作り上げる」ことではなく、「複数の絵を組み合わせる」ことで表現が成り立つメディアである。

 実質的な「一枚の絵の制作」という意味では、シャッターを切った瞬間にすべてが決まると言っても過言ではない。一方、絵画は、その一枚の制作にこそ膨大な時間がかかる。しかし、というかだからこそと言うべきか、簡単に取得できる一枚を多数コレクションし、そこから取捨選択の過程を経て最終的な作品群をまとめることが写真にとっての「創作」であり、この過程にこそ時間がかけられているのである。

手間=時差から身体性の有無に突き当たる

 確かに、銀塩のモノクロ写真を暗室でじっくりと作り込む場合は、一枚の制作にかなりの時間を費やす。しかし、鑑賞者(≠制作者)が出来上がった「一枚の絵(写真)」を見たところで、その制作にかかった時間は推察できない。

 一方、絵画は、例えば10号の油彩より50号の油彩の方が手間がかかったであろうことは、素人が見ても容易に推察できる。写真の場合、六切りか全紙かといったサイズの違いは、単に機械やエンジニアの仕事の差異であって、作者(撮影者)の仕事の質を決定付けるものではない。絵画は、写真に比べて制作にかかった労力が把握しやすいのだ。

 こうして写真という表現手法とそのデジタル化を考えるとき、「アートの身体性」という大きな問題に行き着く。デジタル化とは身体性の喪失であると常々考えている僕としては、ここが非常に気になるのだ。

 ということで、次回はアートの身体性について考えてみよう。

フリーライター。大阪芸術大学講師。「芸術に技術を、技術には感性を」をテーマに、C言語やデータベース・プログラミングからデジタル画像処理まで、硬軟取り混ぜ、理文混交の執筆・教育活動を展開中。


*5 銀塩もデジタルも、一眼レフカメラはフィルムに写る映像をそのままファインダーに導くため、45度の角度でミラー(鏡)が組み込まれている。シャッターを切った瞬間にミラーが跳ね上がり(ミラーアップ)、レンズを通過した光はフィルムへ到達する。当然、その瞬間にはファインダーに光が来ないため真っ暗になる(ブラックアウト)。シャッターを切った瞬間の映像を確認するには、右目でファインダーを覗きながら左目で被写体を直視すればいい。レンジファインダーや二眼レフ、コンパクトカメラでは、ファインダーと撮像部に異なる光学系を用いるため、この現象は存在しない。

*6 ここで言っている「電子の速度」とは、電界の変化がケーブルあるいは空気中を伝わる速さであり、すなわち光速と同じになる。量子力学で「電子の速度」と言った場合「フェルミ速度」も挙げられるが、これは「金属中を飛び回る電子の運動速度」(およそ1000km/秒程度)であり、これによって電流の速さが影響を受ける訳ではない。従って、人間の所作による情報の伝達速度を論じる場合、フェルミ速度を考慮する必要はない。

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