田中角栄の一撃に見た――相手の心をつかむ「超」説得法一撃「超」説得法(3/4 ページ)

» 2013年05月10日 10時00分 公開
[野口悠紀雄,Business Media 誠]

たくさん投げるのは、自信がないから

 就職試験も同じである。「なぜ当社を志望するのか?」は、面接で出る確率が高い質問だから、周到に準備しておく必要がある。

 平凡な志望理由をたくさん挙げては駄目である。印象が薄れるし、平板になる。それらのうちのどれか1つをやり玉にあげられて、批判される危険もある。最初に、強力な理由を1つだけ挙げるべきだ。

 面接試験についてついでに言うと、「最近読んで印象的だった本を挙げよ」も、常連質問の1つだ。面接する側としては楽だし、これによって、受験者についてのかなりの情報が得られるからである。この質問に対して、思い付くままに何点もの本を挙げては駄目である。「読書家」とは評価されない。その中で試験委員がアタックしやすい本だけがピックアップされて、意地悪質問の餌食になる危険がある。

 まず、一点挙げる。できれば、あまり一般的でなく、試験委員が読んでいないと思われる本がよい。ひるんだ様子が見えたら、しめたものだ。この一撃で見事突破できたわけだから、あとは長々と説明をする。止められるまで話し続けてもよい(相手が質問したことに答えているのだから、いくら長くてもよい)。面接試験は、こちらのペースで終了してしまうだろう。もちろん、長々説明のためには、準備が必要だ。

 「たくさん論点を挙げてはいけない」ことを、私は経済問題のディベイトを通じて学んだ。自分の主張を支持するポイントをいくつも挙げると、その中の最も弱い論点がピックアップされて批判される(※)。そうなると、他の論点が正しいにもかかわらず、主張そのものが否定されたような印象になってしまうのだ。

(※)これは、「チェリーピッキング」と呼ばれる手法だ。「たくさんのさくらんぼの中から、目的にあったものだけを選ぶ」ということで、詭弁術の一種だ。通常は、「いいさくらんぼだけを選別して、都合のよい主張をする」意味で使われる。本文で述べたのは、「悪いさくらんぼだけが選別されて、批判される」場合だ。さくらんぼをたくさん投げると、良い方向か悪い方向かは別として、こちらの意図に合わないチェリー・ピッキングをされてしまうのである。

 なぜ人は、たくさんの論点を挙げたがるのだろう。それは、自分の言っていることに自信がないからだ。

 私の家の近くにある某都立公園で、時々来園者への注意放送が流れる。「高音を出す楽器は、近隣の迷惑になりますので、おやめください」と言っている。これを聞く度に、「では、低音の楽器なら、大音響で演奏してもよいのか?」と聞き返したくなる。あるいは、「自転車を置くと通行の邪魔になりますので、置かないでください」と言っている。では、通行の邪魔にならない場所なら置いてもよいのか? 「公園内の楽器演奏や自転車駐輪は禁止」と言えばよいのである。「高音」とか「通行の邪魔」うんぬんは、言う必要がない。言えば、私のようなへそ曲がりに難癖を付けられる。

 公園内の演奏禁止や駐輪禁止は、規則でそうなっているのだが、「しゃくし定規に適用するのは、厳格すぎるのではないか? 批判されはしまいか?」という臆病心が潜在意識下にある。だから、しなくてもよいのに、禁止対象を限定化してしまう(しかも、高音と大音響を混同して)。その結果、注意に迫力がなくなってしまうのだ。

 一撃に自信がないから、何発も打つ。そうすると、かえって効果が薄れる。自信のあるメッセージなら、一言だけ言えばよいのである。

 「一撃で仕留める」をドイツ語で言えば、mit einem Schuss erlangenだ。私は、ドイツ語のこの語感が好きで、時々心の中でつぶやいている。

ダンボに羽根は要らない

 スティーヴン・キングも、文章の書き方に関して、同じようなことを言っている(『スティーヴン・キング 小説作法』アーティストハウス、2001年)。

 彼は「不必要な副詞を使うな」という(ここで「副詞」とは、「動詞や形容詞、他の副詞を修飾する言葉」という意味。日本語の副詞よりやや広範囲)。例えば、「彼女は居い丈たけ高だかに叫んだ」の「居丈高に」がそれだ。こうした修飾語が続くと、文章が冗長になり、迫力がなくなる。また、「夏の日のように美しかった」という類の言い古された比喩は、ぜひ止めてほしいと言う。

 作家がなぜ副詞を使うかといえば、「副詞がないと読者に分からないのではないか?」という不安があるからだ。しかし、これらは「ダンボの羽根のようなものだ」とキングは言う(ダンボは、ディズニー漫画映画の主人公の小象)。ダンボが空を飛べるのは魔法の力によるのだから、その力を獲得した以上、羽根は要らない。

 作家も、自分が何を書きたいかをよく心得ていれば、力強い文章になって、「居丈高に」と言わなくとも、話しぶりは伝わるはずだ。だから、「もっと自信を持っていい」と言うのである。彼は、イギリスの詩人、アレグザンダー・ポープの言葉「過ち犯すは人の常、それを許すは神の業わざ」(To err is human, to forgive,divine.)にならって言う。

 「副詞を使うは人の常、『彼は言った。彼女は言った』と書くは神の業である」

 これは文章を書く場合の注意だが、まったく同じことが説得についても言える。無駄な論点をそぎ落とし、本当に必要な(できれば1つの)論点に絞るのだ。

 これはそう簡単ではないものの、文章を書く場合よりは、ずっと楽なことである。文章の場合、「言った、言った」だけで雰囲気を伝えるには、そのほかの部分の文章がよほどしっかりしていなければならない。しかし説得の場合には、最重要のポイントを1つだけ取り出せばよいのだ。神の業とは言うものの、注意さえすれば、誰でも神になれる。

 そこで私も、アレグザンダー・ポープおよびスティーヴン・キングを借用して、つぎのように言おう。「たくさん投げるは人の常。一撃突破は神の業わざ(ただし、誰にもできる)」

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