コラム
» 2005年12月12日 11時00分 UPDATE

小寺信良:在郷に「テレビの灯」を点し続けた男 (1/3)

筆者のライフワークは「放送の歴史・逸話をできる限り記録すること」だ。今回は、コラム128回連載記念として、一般の人にも馴染みが深いケーブルテレビの黎明期のお話を紹介しよう。

[小寺信良,ITmedia]

 早いもので、このコラムも128回目である。確か100回目の時には、担当者(執行役員編集第1局局長)のほうからイベントやりましょうって話が持ち上がったのだが、いざ100回を迎えると「何言ってんですかIT的にキリがいいのは128回ですから」とわけの分からないリクツで延期になっている。そして迎えた128回目もまた、なんのイベントもなく過ぎ去ろうとしているわけである。

 そんなわけで、またまた独断で128回連載を記念して、今回は筆者のライフワークの1つをご披露することにした。

 筆者のライフワークとは、「放送の歴史・逸話をできる限り記録すること」である。そんなのはNHK放送博物館に行けばいくらでも展示してあるだろうと思われるかもしれない。まあ一般的に見ればああいうコトなのかもしれないが、実際に放送業界の人間から見ると、NHK放送博物館でも収集していない分野が沢山あるのだ。

 今回はそんな中で、一般の人にも馴染みが深いケーブルテレビの黎明期のお話を、ご紹介しようと思う。

ケーブルテレビの発祥

 今年6月に開催された「ケーブルテレビ 2005」は、ケーブルテレビ誕生50年ということでずいぶん盛り上がった。日本で最初のケーブルテレビとされるのは、温泉町で知られる伊香保にあった「伊香保温泉組合の共同受信設備」である。歴史として見れば、「テレビ放送が開始されて2年後の1955年に、NHKが群馬県伊香保町物聞山頂に受信アンテナを設置した」となる。

 そんなケーブルテレビの生き証人とも言えるのが、元NHK職員の中嶋正夫氏だ。1996年、57歳で退職するまで、日本でほぼ唯一ケーブルテレビの基礎技術を研究開発し、実際に開局に至るまでのプロセスを組み上げた人物である。その後、NHK放送研修センター(NHK-CTI)の職員として、ケーブルテレビ技術者の指導に従事された。

 そして今年6月に、65歳でNHK-CTIを退職され、現在は沖縄で悠々自適の生活を送られている。このインタビューは今年7月某日、沖縄への出発を間近に控え、NHK-CTI内にあるCATV技術研修室の撤去作業中というお忙しい中お邪魔して、行なったものである。

――ケーブルテレビ、今年で50周年だそうですね。

中嶋氏: まあ何を以てケーブルテレビの元祖とするのかで、いろいろ考え方がありますよね。自主放送っていうのもあるし、郵政省の認可を始めて取った、というのもあるし。共同アンテナでみんなで見る、っていう原始的な形で言うと、これはもう伊香保より前がいろいろあるわけです。ケーブルテレビの原型は、元々ラジオのときの「共聴」*(共同聴取)から始まっているわけですよ。

*注)元々はラジオを共同で受信するための設備だが、のちにテレビ用の共同受信設備もそのまま「共聴」と言うようになった。

――ケーブルテレビって、やっぱりアメリカが発祥ですか?

中嶋氏: アメリカですね。一番最初はペンシルバニアの郊外で、難視地域に作られた施設。これはアメリカの文献にちゃんと載っています。日本では難視聴地域の人が見たいっていうのもありますけど、もう一つはメーカーがテレビを売りたい、ってところから始まってますね。東芝、日立、松下あたりが、共聴システムをいろいろトライアルしていた。テレビを売るための手段としてですね。

――共聴設備っていうと、村営とかになるわけですか?

中嶋氏: 共聴って自治体が持つわけじゃないんですよ。協同組合か集落か、どっちかですよね。だいたい伊香保とか湯河原とか、温泉地が積極的でしたから、今で言うと自治会が中心になるか、旅館組合、温泉組合とかですね。僕も群馬県で、100ぐらい施設を作ったかなぁ。辺地共聴って言われる、今の都市型ケーブルテレビの手前のやつね。昔はNHK共聴って言ってましたが。

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