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古くて新しい、現代映画のモノクロ化というムーブメント(2/3 ページ)

» 2017年09月16日 06時00分 公開
[天野透ITmedia]

麻倉氏:また、モノクロ特有の表現としてはパートカラー、つまりモノクロの中に特定の部分の特定の色だけが浮き出る、という技法も印象的です。これは非常に物語性・意味性が強く、視聴者は視線をそこに集中させ、その意味を必至に読み解こうとするのです。

 スピルバーグの名作「シンドラーのリスト」。ユダヤ人街をナチス軍が襲う場面では、少女が着ているオーバーだけが赤く浮き出ます。瓦礫(がれき)や人間など様々なものが落ちてくる中で、この少女は傷ひとつ負わない。ここはピンポイントに色が着くことで悲劇性というものが画面全体ににじむわけですが、この演出はそれまで色が全くなかったモノクロこそ映えます。

 あるいは1999年の映画「カラー・オブ・ハート」。1950年代のモノクロテレビ番組「プレザントヴィル」の世界にティーンエージャーの兄妹が入り込んで、旧い世代との対立の中でどんどん新しい世代の色が着いてくるというストーリーで、最後にはものすごいフルカラーになって、兄妹が現代に戻ってきます。色をメディアにして、時代の流れや社会の変化といった鮮烈なストーリーテリングを展開する、これもモノクロとカラーの美しさの対比が気になった作品です。

 先ほど邦画の女性美を挙げていましたが、モノクロ映画を語る上で黒澤明監督は外せません。モノクロ映画における色付けの意味という観点で語るならば最高です。終戦直後の横浜を舞台に、富裕層が住む山手の住宅街と、貧民層が住む浜手のドヤ街の対比を描く作品「天国と地獄」。これは下から見上げると暮らしぶりの違いが鮮明です。山手で運転手として仕える子どもを誘拐するシーンでは、特急こだまから放り投げたカネが詰まったバッグに仕掛けがあり、燃やすと赤い煙があがるのです。音楽とともにサスペンスを盛り上げるのが、仕掛けられた赤紫の煙で、これもモノクロがあってこそパートカラーの効果が出ます。

 そのほか、誰もが知っている「ローマの休日」など、あえてモノクロで撮影するという例も少なからずあります。

麻倉氏:マッドマックスにおけるモノクロのすごみに話を戻しましょう。劇場公開もされたモノクロ版では、カラーではいまひとつ分からなかった、非常に高い解像度が分かります。BDの解像度はもちろん高いですが、色によって解像度がスポイルされる向きがあります。いうなればグラデーションの素地の上に厚みを持った色が乗っている感じ。このため色の情報量は充分ですが、そのためにベースのモノクロが持っていた本来の極めて高い解像感がカバーされる。色を抜くことで生身の解像感がむき出しになるのです。まるでペンキをはぐと現れる、真実のメッセージといったおもむきです。そのメッセージとは? ズバリ“コントラストを強調した作品の過激さ”。これがモノクロ化によって驚くほど分かってきます。

 この作品はモノクロ撮影されたわけではないので、カラーの原盤をリグレーディングしてモノクロにしています。この時におそらく監督の意図として、よりコントラストを強調したのでしょう。単純に彩度情報を消してモノクロ化したのではなく、カラーとは違う作品を意図的に作った、それくらいモノクロでありながら情報量が多いです。

 例えばマックスが丘の上から砂丘を見渡す冒頭のシーンでは、荒野に散らばる石ころの細かな凹凸がものすごく出ます。カラーでもそのような要素は出てはいましたが、モノクロを観ると色によってそれが若干曖昧になっていたと気付かされます。モノクロでは輪郭がしっかりと出ていて、まるで彫刻刀で硬い木を浮き彫りにしたような、人工的な力強さがあります。作品の過激さ・不気味さは色によって中和/柔和されていた。ゴツゴツした荒涼感・虚無の世界は、色によって文字通りカラフルで派手な世界になっていたのです。

 マッドマックスの色付けは極めて特徴的です。ナミビアの赤銅色の砂漠や、その補色となっている空の蒼色。これはおそらくフィルターワークか何かで強調をしているのでしょうが、この色が演出の重要な一翼を担っていることは、以前にも指摘をしたとおりです(関連記事)。しかしモノクロ版では、あえてその色を抜いてしまうことで、物語の本質にググッと迫ることができます。モノクロのグラデーションが、話がこれからどう進むかという羅針盤のようなカタチで出て来るように感じさせられ、驚かされます。

例えばフュリオサ隊長の場合、モノクロバージョンでは独特の肌の質感がカラー以上に強調される。片手を失いながらも独裁者に反抗するという彼女がまとう悲壮感と苛烈さは、モノクロ化によってより印象的になる。画像提供:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント (C)2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

麻倉氏:このモノクロ版、実は本編に先立って「チャプター0」が挿入されており、ジョージ・ミラー監督自身がモノクロに対する3分くらいのメッセージを語ります。それによると、世紀末世界のイメージを打ち立てた「マッドマックス2」をモノクロで見た時に、いたく感動したそうです。「モノクロで見ることにより映像はより抽象的になり、色が少ないことが魅力となるように私は感じた」(ジョージ・ミラー監督)

 監督の視聴環境は“ダビングステージ”、大画面に絵を映して、多チャンネルオーディオをミックスダウンする工程です。実は私も、昔ハリウッドでこの工程を見学したことがあるのですが、映像はカラーではなくモノクロが使われていました。今はおそらくカラーでしょうが、当時はカラーフィルムが高価だったためにモノクロだったようです。その時を思い出しながらマッドマックスを考えると、映画が持つ本質的な言語性、物語性が、色を脱ぎ去ることでピュアに出てくるように感じます。

 もう1つの特徴として、カラーの低コントラスト部分はモノクロ化でコントラストが弱くなるということが挙げられます。砂の上はカラーだとデコボコなどが見られますが、これは色によってもたらされる質感です。チャプター0ではモノクロとカラーの比較映像もあり、カラーでは見える砂漠の細かいデコボコが、モノクロでは結構見えなくなります。細密極まる淡いデコボコ感が消えてゆき、ツルンとする。こういうところは意外とキレイでアーティスティックになるのです。

 逆に石の質量感など、ある程度の大きさがある高コントラストなデコボコは、モノクロ化によってより強調されます。悪役のイモータン・ジョーが地下水を放出する序盤のシーンは、モノクロ版は遠景の群衆がものすごくシャキシャキと出てきます。これはまさにある程度の大きさとモノクロの対比によるもので、カラー以上に存在感が強調されています。

 また、砂漠のツルンとした感じに対して、岩山のゴツゴツ感や地面の石ころ感、イモータン・ジョーがまとう鎧の光感、異型のクルマの鋼感やサビ感といったものが強調されるのです。認識ができるところはより強調され、認識できないところは弱化される。そこに対比があり、砂漠はまるで影絵を見ているような滑らかさなのに対して、光が当たった岩山の荒涼感はものすごいのです。キャラクターの眼力もグッと出てきます。

――色がなくなることで、色に頼っていた表現をコントラストだけで表現する必要が出るわけですから、そこにコダワリを求めると映像そのものがハイレベルになるということでしょう。足かせをはめた結果、より細密に、より印象的にを極限まで突き詰める必要が出て、それに応えた結果極めて印象的な映像になるのですね

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