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はてな、アメリカへ(1/3 ページ)

» 2006年07月14日 11時00分 公開
[岡田有花,ITmedia]

 はてなの近藤淳也社長が日本を去る。妻ともう1人の社員と、犬1匹を連れて。社員19人を、東京に残して。

 なぜ今、アメリカに?――そうたずねると「いや、それがね」と照れ、濃くて強い目の光が、少し柔らかくなる。

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 「映画館で『スターウォーズ エピソード3』を見ていてふと、『東京でぬくぬく暮らしていてはいけない』と思ったんですよ」

 善良で純粋だったアナキン・スカイウォーカーは、つらい葛藤を経てダークサイドに落ち、ダースベイダーになる。「登場人物みんな、ずいぶん過酷な人生を送ってますよね。全宇宙の運命を背負い、命をかけて刀を振ったり――すごいなぁと思って」

 そして反省した。「もっと過酷な環境で頑張らないといけないのでは」と。昨夏のことだ。

 近藤社長の生活も、生ぬるいものではないはずだ。「日本を代表するWeb2.0企業」などと言われ、注目を集めるベンチャー社長。新サービスやユニークな会社の仕組みにマスコミが注目し、取材が殺到する。

 「東京に来て社員が増え、いい会社と言ってもらえて、収益が出るようになって……。ちょっと、ちやほやされているなぁという感覚がある。ぬるいというか、甘えが出ているなと」

 2001年7月、はてなは京都で、夫婦2人で創業した。ITも経営も素人だった当時の近藤社長は、先輩企業の門を叩いて教えを乞い、「人力検索はてな」を作った。当初は鳴かず飛ばず。資本金は20万円に減り、出資をあおいでは断られ、受託開発で糊口をしのいだ。必死だった。

 「すごく遅れている感じがあったんですよ。ぼくたちがやっていることはレベルが低いんじゃないか、ビジネスとしてもヒヨっ子だろうと。世の中にはすごい人がいっぱいいるのに、その中に全然入れてもらえてないんじゃないか、と」

 「その分すごく頑張ったと思う。新しいもの作って、どうだどうだ、ってユーザーに問うことを、本当に頑張ってやっていた」。京都時代に開発した「人力検索はてな」「はてなアンテナ」「はてなダイアリー」。この3つは今、はてなの“顔”に育ち、収益の源泉になっている。

 2004年4月。はてなは京都から東京に移った。京都でできることはやり尽くし、「次を知りたい」と思ったから。

 あれから2年。東京で多くを学んだ。会社の規模も拡大し、収益も伸び、このままでも行けそうという手応えもつかんでいる。そして分かれ道にさしかかった。今の体制のまま拡大を続けるか、国内で上場を目指すか――近藤社長が選んだのは第3の道。アメリカに行くという、普通の会社ならまずありえない選択肢だ。

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 実は、かなり焦っていた。「東京に来てから、自分の手で新しいサービスを生み出せていない。受託開発していた京都時代と違って、新サービスの開発だけやっていればいいはず。手伝ってくれる人もたくさん増えたはずなのに、作れない。結構危機的ですよ」

 中学時代、陸上部の長距離選手だった。運動場のトラックを抜けて外に出て、いろんな景色を見るのが好きだった。高校時代の受験勉強はいつも違う図書館で。今も「出張オフィス」と称し、別の会社の一角を借りて仕事することがある。場所を変えた刺激と高揚感の中で、質の高い作業をするのが好きだ。

 だから今、環境を変える。新しい場所でゼロに戻り、何かを生み出す刺激と高揚感を得る。東京からシリコンバレーへ。「あなた誰?」「はてなって何?」から始まる土地へ。

 ネットの世界標準が生まれる場所で、厳しい環境にあえて身を置き、戦いを挑む。「新しく起業するぐらいの意気込みで頑張りたい」という。究極の目標は、「『はてな村』を世界標準に」。

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