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「メガネ男子」終章・メガネ男子に萌えるということ夏休み集中連載

» 2012年08月24日 17時00分 公開
[あさみ,ITmedia]

連載「メガネ男子」

あさみ

某業界の片隅でひっそりと書いている、いろいろと匙を投げた女子。メガネ男子研究をライフワークとする。5月の文学フリマにて同人サークル・久谷女子の有志と合同で同人誌「不機嫌メガネ男子論」を発表。Twitter:@adonis_fish


 記憶の中のメガネ男子たちは、いつも横顔だ。

 模範実験なのに始めたとたんに口数が減り、ちっとも手順を説明してくれなかったあの先生。宿泊訓練の夜、部屋でふざけあうクラスメイトを避けて宿のロビーで独り本を読んでいたあの同級生。博物館の展示ケースの前で、ガラスに眼鏡がぶつかるのにも気づかず円筒埴輪を見詰めていたあの先輩。みんな横顔で、真っ直ぐに前を見ていた。その視線に僕が90度方向から視線を送り、斯くして両者の視線は数学的に直交することになるのだが、それは比喩的な意味で「視線が交わる」こととは一致しなくて、まあ何が言いたいかというと、彼らは僕なんか見ていなかった。

 そんな彼らを、僕なんか見ていない彼らを、見るのが好きだ。昔も今も。

 本コラムではこれまで4回にわたって「メガネ男子」について論じてきたが、実は最も重要なテーマについて言及を避けていたことにお気づきだろうか。そう、「メガネ男子のどこがいいのか」という問題である。触れなかった理由は単純だ。あまり一般化して語れるものではないから。

 もちろん究極的にはメガネ男子的気質、すなわち世の中との間に埋めようのないギャップを生じ、真っ当に生きることに何かしらの困難を抱える、その心性に魅力を感じているのだ、ということはできるだろう。しかし、それではこの問いに対する答えにはならないだろう。世間から隔絶しているとなぜいいのか。真っ当に生きにくいことがなぜいいのか。それを説明しなければいけないのだが、普段メガネ男子萌えを共有している“同志”と呼ぶべきひとたちとでさえ、この点について完全な一致を見たことはない。

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 メガネ男子の世界は実に多様だ。真っ当に生きることが難しいという点で共通してはいても、その難しさがどのように発現するか―あっさり道を踏み外してしまうのか、敢えて踏みとどまろうとして苦悶するのか、はたまた表向きは上手く周りに合わせながら内心で孤独を深めるのかetc.──はそれぞれに異なる。さらにもともとの性格や年齢など、メガネ男子性に起因しない要素も加わって、優等生とはみ出し者、八方美人と人嫌い、というように、およそ正反対といっていいキャラクターをいくつも内包している。

 一方で、萌えとは細部に宿るもの。特にメガネ男子の場合、萌え要素として重視されるのはそのひとのメガネ男子性が垣間見えるような瞬間、またはエピソードであり、キャラクターや人格との結び付きが大きい。要するに「キャラクターの数だけ萌えポイントがある」状態で、そのためメガネ男子萌え界においては、ここが萌えるあそこがいいわという類の論評をしようとすると、個々のキャラクターか、精々が「○○系メガネ男子」といったサブカテゴリくらいまでしか対象にできないことが多い。それ以上広げると、共通して語ることのできるポイントがあまりにも少なくなってしまうのだ。

 そしてメガネ男子がいろいろであるならばメガネ男子萌えもいろいろで、同じ人物でもそのひとのどこにどのようなメガネ男子性を感じて萌えるのか、が人によって異なることもしばしば。本コラムのその1で僕は「キテレツ大百科」の勉三さんについて「あまりメガネ男子性を感じない」と埒外に置いたが、界隈では彼をれっきとした上機嫌天使系(ピュアで前向きでハッピーな感じ)のメガネ男子とする考え方のほうがメジャーだろう(実際、「不機嫌メガネ男子論」でご一緒した岡田育さまからは掲載後すぐに「勉三さんを外すとはなにごとか」とお叱りをいただいた。岡田さまとはパトレイバーの内海黒崎、どちらがメガネ男子の正統かをめぐっても議論を戦わせる仲で、まさに好敵手であります)。が、だからといって簡単に譲れるものでもない。萌えとはきわめて個人的な感情でもある。

 と、延々前置きをして ※個人の感想です。感じ方は人によって異なります。 と予防線を張ったところで、最後に少しだけ「僕の」メガネ男子萌えについて。基本的には他のみなさんと同じく言動をあれこれ分析して解釈して、いやぁこの辺すごくメガネ男子ですね萌えますね、とやっているのだけれど、一方でそれとは全く違う、眼福にも近いような感情も確かに存在していて、最近はそれこそが僕の萌えの本質なのかなと感じたりもしている。

 冒頭述べたように、なにかに没頭して周りが見えてない系メガネ男子を横から眺めるのが好きだ。今まで散々「ビジュアルじゃねえよ」を強調しておいて矛盾するようではあるが、別にイケメンだから、容姿が好みだから、見たいわけではなくて。うつむいた顔の、鬱陶しく長い前髪の隙間からちらりとのぞくまぶたとか、こめかみで小さくリズムを刻む指とか、声もなくなにかをつぶやく唇の微かな動きとか、そういうちょっとした仕草に勝手にメガネ男子性を感じたらもうそれでいいというか、それ以上は要らないというか。

 重要なのは、彼らがこちらに注意を払っていないこと。それを確認すること。それ以上は不要だ。こちらを見られたり、話し掛けられたりしたら、全力で逃げる。もちろんこちらから話し掛けるなんてもっての外。もちろん人見知りによるところもあると思うけど、でもそれ以上に、僕にとって見ることは互いの距離を、それがじゅうぶんに遠いことを、確認する行為だから。その距離になにを求めているのかは正直よく判らないけれど、できる限りそっとしておきたい、影響を与えたくない、ということか。それが好もしいものであればあるほど触れたくない。うん、なんかちょっと歪んでる。とは、自分でも思うけど。

 あるいは、彼らがそのままでいてくれることが、僕がそのままでいられることを保証してくれる、そんなふうに感じているのかもしれない。

 だとすれば、メガネ男子のレンズは僕にとって、ガラスでも壁でもなく、鏡なのか。

 さて、夏もそろそろ終わり。なにかの間違いのような夏休みの集中講義「メガネ男子」も、これでお終いです。無事修了し、本日ここを巣立っていくみなさんが、ここで得た知識と経験を存分に生かして“正しい”メガネ男子萌えの普及に邁進していただけることを期待しています(違。またどこかで。

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