阪神の救世主となるか 新監督「鉄人」の知られざる努力と忍耐赤坂8丁目発 スポーツ246(3/4 ページ)

» 2015年10月22日 08時00分 公開
[臼北信行ITmedia]

無名からスーパースターの地位をつかむ

 実際、金本氏はプロの世界に飛び込んだ時から「練習はウソをつかない」と自分に言い聞かせ続けていたという。それを証明するエピソードが、プロ入り前後の逸話だ。

 広島県出身で地元の野球強豪校・広陵高時代は甲子園経験もなくプロから目を付けられるようなレベルではなかったが、東北福祉大に進学するとメキメキと頭角を現して4年生の時には大学選手権初優勝の立役者になった。しかしプロ球団がドラフトでの上位指名を検討するほどの有望選手ではなく、当時の金本氏の状況を知る関係者によると「痩(や)せこけていて筋肉も全然ない感じのヒョロヒョロっとした選手。そのイメージもあって大学時代は先輩から『マッチ棒』と呼ばれ、イジられていたこともあった」

 それでも1991年秋のドラフトで地元・広島カープから4位で指名を受けた。当初は編成の獲得リストにも載っていなかったが、この当時にチームの指揮を執っていた山本浩二監督が「どうしても欲しい」とプッシュして獲得が決定。球団編成は獲得に懐疑的だったが“監督枠”で指名にゴーサインが出されたという経緯がある。

 大卒で入団したならば、プロの世界では普通に考えて即戦力と見なされる。ところがプロ1年目は5試合、2年目になってもレギュラーシーズンの3分の1にも満たない42試合に出場しただけ。守備でも外野からの送球でグラウンドに叩きつけてしまうクセがなかなか矯正されず「モグラ叩き」と呼ばれ、ポンコツ扱いされるなど周囲の誰もが「クビにされるのは時間の問題」と思っていたという。

 だが、金本氏は1993年のプロ3年目から芽が出始め、一軍でレギュラーシーズン17本塁打を放つ。その後は2000年に日本プロ野球史上7人目(当時)となるトリプルスリーをマークするなど数々の活躍で球史に名を刻んだのは今さら解説するまでもない。プロ3年目でブレイクのきっかけをつかんだ当時の舞台裏について前出の広島OBは、こう打ち明ける。

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