こういう傾向はなにも『朝日新聞』だけではない。甲子園の「感動ドラマ」を売りにしているすべてのメディアにとって、「1975年から2011年の37年間で部活動の死亡事故は139件あって、そこで最も子どもが死んでいるのが野球部」というのは、あまり騒いでもらいたくない「不都合な真実」なのだ。
記者クラブ、放送法改正、放送アーカイブ、消費税軽減税率、そして過去の原発報道を見れば分かるように、マスコミは自分たちに都合の悪い話を打ち消すとき、「恐怖訴求」を好んで用いる。
例えば、記者クラブ問題や放送法改正では、「報道の自由がなくなって戦時中に逆戻りだ」なんて恐怖を触れ回って、国民の目をそらすことで「特権」を死守している。
そういう過去のやり口を参考にすれば、もしも甲子園で球児や観客が熱中症でバタバタ倒れても、「夏の甲子園をやめたらプロ野球が弱体化する!」「炎天下で練習しないと日本の野球のレベルが落ちる!」などあの手この手のキャンペーンで火消しをする可能性は高い。
最悪、死人が出ても先ほどの女子マネージャーのように、「美談」にすり替えたり、「今回、亡くなった子どもはたまたま水分補給してなかった」という不測の事態として扱ったりして、「さらなる対策が必要だ」みたいな“問題先送り型報道”が行われるはずだ。
ただ、このようなマスコミの世論誘導以上に、「夏の甲子園」への批判をはねのけてくれる人々がいる。それが3つ目の「運動部しごき自慢おじさん」だ。
いったいなんのことやらと思う方たちのために説明しよう。みなさんの周りにも、ひとりやふたりいないだろうか。学生時代に運動部に所属していたときの、筆舌に尽くしがたい壮絶な「シゴキ」をうれしそうに語っているおじさんが。
「練習中はバテるからと水も飲ませてもらえなかった」
「罰として、炎天下の中でグラウンドを何十周も走らされて気を失った」
「今なら大問題だけど、当時はよく監督からボコられた」
だが、よほど心の傷なのかと思いきや、この手のおじさんたちは決まって、壮絶な被害体験を述べた後にこのような言葉で締めくくる。
「当時は先輩を殺してやると思ったけど、今となってはいい思い出だよ」
「でも、あの辛さを経験したおかげで、今はなんでも乗り越えられる」
つまり、運動部の理不尽な「シゴキ」を「必要悪」として前向きにとらえるおじさんのことだ。確かにそういうおじさんいるけど、それがなんで「夏の甲子園」がなくならない理由なのだと思うかもしれないが、「児童虐待」が起こる構図をイメージしていただければ分かりやすい。
親に虐待された子どもは、大人になると同じように子供を虐待する事例がいくつも報告されているように、人は自分がやられた「ハラスメント」を、知らぬうちに他人に行ってしまう。
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