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» 2018年10月31日 09時00分 公開

パーフェクトウーマン 女性が拓く新時代:両親亡くした一人娘の挑戦 元ラジオDJが「自己破産」覚悟でめっき会社社長に (1/6)

完璧な人間はいない――。だが、仕事も私生活も充実させ、鮮やかにキャリアを築く「女性リーダー」は確実に増えてきた。企業社会の第一線で活躍する女性たちの素顔に迫り、「女性活躍」のリアルを探る。

[大宮冬洋,ITmedia]

パーフェクトウーマン 女性が拓く新時代:

完璧な人間はいない――。だが、仕事も私生活も充実させ、鮮やかにキャリアを築く「女性リーダー」は確実に増えてきた。企業社会の第一線で活躍する女性たちの素顔に迫り、「女性活躍」のリアルを探る。


 天職というものはどうやって見つけたらいいのだろうか。豊かな才能と強い意志、そして良い環境に恵まれて、幼い頃からの夢を実現させたスポーツ選手などが頭に浮かぶ。しかし、「その他大勢」のわれわれは、あれこれ試して回り道をしながら、自分と職業を融合させていくしかないと筆者は思う。

 埼玉県の大宮駅からタクシーで15分ほど走ると、陸上自衛隊大宮駐屯地が見えてくる。道路を挟んだ住宅地に溶け込むように、日本電鍍(でんと)工業のクリーム色の建物があった。宝飾品から楽器、医療機器、電子部品などのめっきを、「多品種変量ロット」(多くの品種を、1点から量産まで、量にかかわらず対応できる)で対応する唯一無二のめっき会社だ。

バブル期。創業社長の一人娘。自由そのものだった

 6代目社長の伊藤麻美さんは創業者の一人娘として、何不自由なく育った。実家は会社から遠く離れた東京・六本木にあり、起業精神のあふれる父親と料理上手の優しい母親に愛情豊かに育てられ、インターナショナルスクールから上智大学へと進学。卒業後はラジオのパーソナリティーとして活躍した後に渡米。宝石鑑定士の道を歩もうとしていた。

phot 伊藤麻美(いとう・まみ) 1967年東京都生まれ。上智大学外国語学部比較文化学科を卒業後、ラジオやテレビ番組のディスクジョッキーとして活躍。その後渡米し、宝石の鑑定士・鑑別士の資格を取得。帰国後の2000年に日本電鍍工業株式会社の社長に就任

――ラジオのパーソナリティーからの宝石鑑定士。どういう気持ちで仕事を選び、転職をしようと思ったのでしょうか。

 未熟な発想だったと今では思いますが、私は若い頃から音楽と宝石が好きだったからです。父から「宝石の仕事は年をとってからでもできるよ」と教えてもらい、まずは音楽を仕事にすることにしました。ラジオ局に就職したわけではなく、フリーのディスクジョッキーです。

 30歳を迎えるころになり、マスコミで表に出るような仕事は、日本においては女性が永続的に活躍できる分野ではないと感じるようになりました。年齢に関係なく力を発揮できる仕事を考えたとき、すでに亡くなっていた父の助言に従って宝石の分野に進むのは自然なことでした。

放漫経営で負債10億円。実家も売りに出された

――30歳で渡米し、宝石鑑定士の資格を取得されましたね。世界的なブランド企業への就職も決まりかけていたころに帰国して日本電鍍工業に入ったのは、やはりお父様の遺志だったのですか。

 父は私に会社を継いでほしいとは全く思っていませんでした。会社には親族を誰も入れていませんでしたし、昭和元年生まれの父には娘に会社を継がせる発想はありません。

 私が帰国したのは、「会社が倒産に追い込まれるので六本木の家を売ることになった。私物を整理してほしい」という知らせを受けたからです。母は私が20歳のときに亡くなっていて、父も他界した後は継母(父親の再婚相手)が東京にいました。会社の経営は他の人に任せきりだったので、実家が会社名義になっていることすら私は知らなかったのです。

――お父様が初代で、のちに伊藤さんが社長に就任したときは6代目。その間に4人も社長がいたのですね。

 正確に言うと、3人です。同じ人が社長に返り咲いたことがありますから。

 生前の父は複数の会社を持っていたので、中核である日本電鍍工業も他の人に社長を任せつつ、自分はオーナーとして経営をチェックしていました。めっき分野だけを追い続けることが本当にベストなのか、時計のめっきに売り上げの9割も依存している状態は危険なのではないか、などと考え続けていたようです。時計の生産が海外に移転していた頃だったので、当然の危機感です。

 父の後を継いだ社長たちは父の話を無視しました。めっきの仕事を時計以外に広げることをせず、安易に自動化の機械を入れてしまったのです。しかし、機械が得意とするような同じものを大量にめっきする仕事はすでに海外に流出してしまっていて、日本に残っているものは小ロットでかつ手作業を必要とします。自動化の必要性はありません。しかも、その機械はまともに動かないという無用の長物でした。

 借り入ればかりが増えてしまい、リストラをして何よりも大事な人材を失うという負のサイクル。私が帰国したとき、負債は10億円を超えて、会社は瀕死の状態でした。

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