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兼高かおるさんが唱えた「42歳定年説」  だから私は19年勤めたテレビ局を辞めた考え抜いた「不惑」の意味(1/6 ページ)

» 2019年01月25日 08時00分 公開
[田中圭太郎ITmedia]

 私は42歳11カ月で、19年間勤務した放送局を辞めた。その理由は、1月5日に90歳で亡くなられた兼高かおるさんが提唱した「42歳定年説」によるところが大きい。生前の兼高さんと面識があったわけではない。幼少のころからテレビで兼高さんを見て、やがて人となりを知り、著作を読んで勝手に尊敬するようになった。

phot 兼高かおるさんは「42歳定年説」を唱えていた(小学館文庫『わたくしが旅から学んだこと』 より)

取材した国150カ国、移動距離は地球180周分

 兼高さんは1954年から米国に留学し、帰国後はフリーのジャーナリストとして活躍。私が兼高さんを知ったのはもちろん、59年から90年までの31年間、TBS系列で日曜朝に放送されていた「兼高かおる 世界の旅」だ。

 九州の田舎で育っていた私にとって、世界を初めて意識した番組だった。テレビ画面の向こうに、想像したこともない外国の景色がある。遠い世界のことを、上品な話し方で見せてくれる番組は、子ども心にも深く印象づけられた。

 中学生、高校生くらいになって番組が終わりを迎えようとしているころ、「世界の旅」という番組の意義をようやく理解した。まだ日本人の海外旅行が一般的ではなかった時代から、さまざまな国の文化や暮らしを伝え、取材した国は150カ国、移動距離は地球180周分にも及ぶ、異例の長寿番組だったのだ。

 あわせて、兼高さんの生き方にも感銘を受けるようになった。兼高さんはフリージャーナリストとして活動し始めたころの58年、早回りでの世界一周をしていた米国人、ジョセフ・カボリー氏に、東京都知事の名代で記念の人形を渡したことをきっかけに、自分も早回り世界一周に挑戦。プロペラ機による世界一周最速記録、73時間9分35秒を打ち立てた。

 英語が使えて取材経験もある兼高さんは、この記録達成をきっかけにラジオ、テレビで海外を取材する番組を手掛けるようになり、翌年「世界の旅」が始まる。驚いたのは、毎週放送されている番組であるにもかかわらず、兼高さんがプロデューサー兼ディレクター、現地でのコーディネート、取材、原稿執筆、編集、ナレーターと一人で何役も務めていたことだ。

 兼高さんの45歳年下の自分よりも、同時代の女性に与えたインパクトはさらに大きかったことだろう。TBSが発行していた『新・調査情報』(現在は『調査情報』として発行)では2002年に「放送をつくる女性たち」のテーマで特集が組まれ、兼高さんの仕事について振り返っている。

 59年、KRT(筆者注・現在の東京放送=TBS)で「兼高かおる世界飛び歩き」がスタート。その後『兼高かおる世界の旅』として31年間の長寿番組となる。まだ海外旅行が一般的ではない時代に、世界をお茶の間に運ぶ番組となった。案内役の兼高かおるは「すてきな仕事をする女性」と女性視聴者たちの憧れの的だった。(『新・調査情報』第33号・2002年1・2月号、28ページ)

 兼高さんが幅広い世代に影響を与えたのは間違いないだろう。私は「世界の旅」が終了した後、随分たってから兼高さんの著作を読むようになり、再び影響を受ける。それが「42歳定年説」だった。

phot 31年もの長寿番組となった「兼高かおる世界の旅」(TBSのWebサイトより)
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