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兼高かおるさんが唱えた「42歳定年説」  だから私は19年勤めたテレビ局を辞めた考え抜いた「不惑」の意味(3/6 ページ)

» 2019年01月25日 08時00分 公開
[田中圭太郎ITmedia]

「42歳定年説」が響いた個人的な理由

 兼高さんの「42歳定年説」を知った時、私は37歳。新卒で大分県にあるテレビ・ラジオ兼営局の大分放送に入社し、ずっと報道部に所属していた私は、家庭を省みない会社人間、仕事人間といった状態だった。

 地方の記者とはいえ、警察担当でも政治担当でも、やるべきことは多い。警察担当の時は、捜査関係者の自宅を夜討ち、朝駆けする。政治担当でも選挙中は県内各地の事務所を夜遅くまで飛び回って取材。サービス残業の連続で、完全に休む日は少ない。情報収集を兼ねて夜は協力者と酒を飲む日も多かった。

 すると疲労のためか、35歳から毎年、間質性肺炎という原因不明の肺炎にかかるようになった。3度かかったうち、2度入院。2度目の入院の直前には40.9度の高熱が出て、17日間入院したことを覚えている。

 その時に思ったのは、会社員として猛烈に仕事をして、それで病気で死んでしまっては、自分にとっても家族にとっても何も残らないのではないか、ということだった。「42歳定年説」に出会ったのはこの時期。2度目の入院から少したったころだった。キャリアチェンジを本気で考え始めるようになった。

phot 兼高さんは世界を渡り歩き、米国大統領のケネディ氏や画家のサルバドール・ダリ氏など多くのセレブたちを取材していた(『わたくしが旅から学んだこと』より)

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