1963年、神宮第二球場に、都内の小学生たちが参加した「スポーツの日」というイベントがあった。それを視察した瀬尾弘吉文部大臣は思わず、「だらしないな……」とつぶやいた。行進がグダグダだったのだ。取材をした新聞記者も同じ感想を抱いたようで、こんな感じで子どもたちをディスっている。
「校庭に集まるのも三々五々。なにをやらしてもダラダラ、バラバラ、戦後の子供に集団性と規律がないというのは定評のあるところだ」(読売新聞 1963年7月1日)
当たり前だが、60年代の日本を支えたおじさんたちはほぼ例外なく、戦前教育を受けている。それはつまり、鬼畜米英が来たら槍(やり)をついて戦えというバリバリの軍隊教育を叩き込まれた世代である。そういうおじさんたちからすれば、ピシッと行進もできない子どもは、「ロクでもない大人予備軍」に見えてしまったのだ。
かくして、日本社会の中に「秩序を乱す問題児」が増えることを危惧したおじさんたちが立ち上がる。「集団主義教育」の普及を目的とした「全国生活指導研究協議会」が、東大教授の宮坂哲文氏を中心として結成されたのである。当初は200〜300人程度だったこの会は瞬く間に会員を伸ばし、63年には2000人にのぼった。
そしてほどなくして、「気をつけ」「前ならえ」が学校教育で復活する。戦後生まれの子どもたちにとっては「謎ルール」以外の何者でもないが、おじさんたちは「これで子どもたちの未来も安泰だ」と大満足だった。これが世代を繰り返すうちに「ルールに従う教育」として定着、現在に至るというわけだ。
つまり、日本の教育というのは、おじさんたちが「自分が従っていた理不尽な謎ルールを下の世代にも強要する」ことを繰り返して成り立っているのだ。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PRアクセスランキング