LGBTという言葉が一般化してきたことで、教育現場でも性同一性障害を中心に子どもの性を巡る課題が顕在化し始めていることは、みなさんもご承知の通りです。文部科学省が14年に行った調査では「600件以上の事例」が報告されています(「学校における性同一性障害に係る対応に関する状況調査について」)。
以前、戸籍上は男だが、自身の性別に違和感があった6歳の園児が女の子の服装で登園したところ、他の園児にからかわれたり、暴言や暴力を受け、保育園に行けなくなったという痛ましい問題が報じられましたが、このような“いじめ”も大人たちのLGBTへの知識のなさが影響を及ぼしていることはあきらかです。
この問題を報じた日経新聞の紙面には、園児が書いた、受けたいじめのメモが掲載され、そこには、「ぼこぼこ」「なかまはずれ」「あちいけ」「びりびり」と、つたない文字がつづられていました。差別という言葉さえ知らない子供が、いじめられてしまうという悲しい現実が存在するのです。
差別的な“まなざし”を向ける人たちは、誰が決めたかも分からない「フツー」という言葉を多用します。そして、その「正義」の名を借りた差別、偏見、いじめが、ときに当事者を「死」に向かわせる許されない行為であることにも気が付きません。
私自身、LGBTの方たちへのインタビュー調査で、彼ら彼女らの声にならない悲鳴を聞いてきました。
企業でも、「アンタがゲイなのはいいけど、新入社員に手出さないでくれよ」「プライベートでLBGTの活動をしてるのは構わないけど、周りが動揺するから絶対に公表するな」などと、心ない言葉を上司や同僚から言われ、自尊心を傷つけられ、今、この時間も、苦しみ、声をあげることもできない人がいます。
どんなに傷つけられても、「生活のため」に仕事を辞められない人たちもいます。
件の政治家の発言、「どんな発言をしても大丈夫な社会をつくるべきだ」という暴論の、「どんな発言」とは何を意味するのか? 「子供のいじめは許されない」と誰もが言うのに、なぜ、「大人のいじめ」は許されてしまうのか。
全ての人に「自由と幸せになる権利」があり、その権利を担保できない社会は、世界に受け入れられることは、まず、ない。
「え? なにそれ? 見かけ男なのに心は女だから〜とか言って、女子トイレに入るのおかしいでしょ?」などと言った途端に、アウトです。企業も全く同じです。
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