中之島の開発は江戸時代にさかのぼる。材木商の淀屋が中之島で米市を設立し、米の価格について公正な統一基準を作った。これで米の品質が保証され、米の実物を見なくても米の手形取引ができるようになった。手形を持って所有者の蔵へ行けば米と交換できる。
米相場が生まれ、世界で初めて先物取引というビジネスが生まれた。米市の周囲に全国の藩の蔵が建ったという。中之島は「商都・大阪」の中心的な役割を持っていた。大阪域内の水運と大阪湾の接点でもあり、明治時代は「水の都」とも呼ばれていた。
明治以降、中之島の各藩の蔵は公有地へ、または払い下げられて、大阪市庁舎、金融機関、中央公会堂、新聞社、倉庫会社などが設立された。行政と金融と文化の島。しかし、中之島の北側に官営鉄道の大阪駅ができた。これに対抗して渋沢栄一らが中之島の南東側に京阪電気鉄道を設立する。
天満橋と京都の五条駅を結ぶ電鉄が開通し、人と貨物輸送が船から鉄道に変わる。鉄道のない中之島は不便な島になってしまった。高度成長期には公害汚染で中之島周囲の水質が下がる。この当たりから中之島の停滞が始まったようだ。
大阪市としては、かつての商業中心地を再生したい。両岸に合計24本の橋が架かり、周辺の地下鉄駅からは徒歩10分圏内だけど、中之島に鉄道が通ればもっと便利だろう。そこで1980年代に「なにわ筋線」構想が立ち上がった。新大阪〜梅田〜中之島〜難波だ。御堂筋線の混雑解消の目的もあった。なにわ筋線は現在、大阪(北梅田)〜中之島〜JR難波・南海電鉄新今宮駅を結ぶルートが確定し工事準備に入った。
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