こうして難局を乗り切ったたけや製パンは、計画通り、久保田町に新工場を建設した。ここから一気にパンの増産体制を構築していく。
当時は秋田県内にも製パンメーカーは数社存在しており、規模では同業のスズヤパンの方が上回っていた。ところが、拡大路線によって生じたひずみや、労働組合関連のトラブルで経営が傾いた。たけや製パンは手を差し伸べて、会社を吸収合併するとともに、従業員も引き取った。後年、秋田第一製パンも買収し、県内唯一の製パンメーカーになった。
1968年5月にスズヤパンを統合し、さあこれからというタイミングで、山崎製パンの東北進出の情報が耳に飛び込んできた。まさに、“黒船”の到来である。
山崎製パンは1948年に千葉県市川市で創業。創業者である飯島藤十郎氏の経営手腕によって急速に勢力を拡大し、大阪(66年)や名古屋(67年)、福岡(68年)にも進出を果たした。次はいよいよ東北がターゲットだというのは自明の理だった。当時の売り上げ規模はたけや製パンの10倍以上。まともにぶつかれば敵(かな)う相手ではない。一気に飲み込まれてしまうのがおちだった。かといって、ここまで育て上げた会社をつぶすわけにもいかない。
そこで茂太郎氏は、飯島氏に直接会いに行き、業務提携を打診するという行動に打って出た。このフットワークの軽さと物おじしない度胸こそが茂太郎氏の真骨頂だった。ただし、さすがの茂太郎氏も緊張していた。真人氏が回想する。
「私が小学5年生の時で、その日のことは覚えています。親父は秋田から夜行列車で会いに行きました。一升瓶のお酒を持ち込み、電車の中で飲んでいたのですが、上野に着くまで眠れなかったそうです」
飯島氏は思いのほか快く迎え入れてくれて、二人はすぐに意気投合した。大博打は功を奏したのだ。しかし、それはあくまでトップ同士のフィーリングの話。会社と会社が対等な関係を築くこととは話が別だ。
「そこからすぐにことは進まなかった。飯島さんの部下の方が『わけの分からない秋田のパン屋となんで提携するんだ』と猛反対したそうです」(真人氏)
茂太郎氏は山崎製パンの幹部の元へ足繁く通い、理解を求めた。何度も門前払いを食らったが、引き下がるわけにはいかない。その苦労がついに実り、68年6月、業務提携にこぎ着けた。
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