『ジャンプ』伝説の編集者が『Dr.スランプ』のヒットを確信した理由マシリトが行く!

» 2023年11月22日 08時30分 公開
[河嶌太郎ITmedia]

 日本が世界に誇る漫画市場。その市場規模は国内だけでも2022年は6770億円と推定され、世界では21年に約109億1000万米ドル(約1兆6000億円)と推定されている。中でも集英社の『週刊少年ジャンプ』は好調で、出版不況の中でも約116万部の発行部数を維持している。

 この『週刊少年ジャンプ』で、『DRAGONBALL(ドラゴンボール)』『Dr.スランプ(ドクタースランプ)』の作者・鳥山明さんの才能を発掘した伝説の編集者がいる。1996年から2001年にかけて『ジャンプ』で編集長を務め、集英社元専務、白泉社元会長の鳥嶋和彦さんだ。そんな鳥嶋さんが初めて本を出した。『Dr.マシリト 最強漫画術』(集英社)というタイトルで、半世紀近い漫画編集者のキャリアの集大成となる哲学に加え、漫画家志望者がキャリアを築くための具体的なメソッドが詰まっている。

 本の出版を記念する形で、8月に東京ビッグサイトで開かれた世界最大の同人誌即売会「コミックマーケット(コミケ)102」でトークイベントを開催した。「同人誌vs商業誌〜壇上に出会いを求めるのは間違っているだろうか〜」とのテーマで、鳥嶋さんと、本の構成・執筆を担当し、コミケ初代代表の霜月たかなかさん、コミケの共同代表の一人で、漫画出版社の少年画報社取締役の筆谷芳行さんの3人が登壇。司会は『Dr.マシリト 最強漫画術』の編集担当である集英社の齋藤征彦さんが務めた(本文では――と表記)。

 壇上では商業誌の考え方を代表する立場として、鳥嶋さんと、筆谷代表がアマチュアリズムを巡って議論を交わす場面もあった。漫画を商業的成功に導く考え方は何か。前中後編でお届けする。なお、イベントでの発言は全て「個人の見解」だ。

photo 鳥嶋和彦(とりしま・かずひこ) 漫画編集者。『週刊少年ジャンプ』で、入社2年目で鳥山明を発掘し、『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』を立ち上げた。ほかに桂正和『電影少女』『ウイングマン』、『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』の作画担当、稲田浩司なども担当。漫画以外にも、企画ページの『ジャンプ放送局』『ファミコン神拳』などの編集や、連載漫画のメディアミックス化を手掛ける。『Vジャンプ』創刊編集長。1996年〜2001年に『少年ジャンプ』編集長を務め、『遊☆戯☆王』などのメディアミックスを精力的に推し進めたほか、『ONE PIECE』『NARUTO-ナルト-』も開始。10年に集英社専務、15年より白泉社社長。1952年新潟県生まれ
photo 原田央男(はらだ・てるお)大学在学中に漫画批評同人サークル「迷宮」を仲間と共に結成し、1975年から開催されている日本初の漫画同人誌即売会「コミックマーケット」の初代代表となった。以後“霜月たかなか”のペンネームで、漫画・アニメーション関連の記事や著作を執筆するフリーライターとして活躍し、鳥嶋和彦氏とは『こちら葛飾区亀有公園前派出所大全集 Kamedas』を始めとして、その下でムックや書籍の編集・執筆に多く携わっている。著作に、霜月たかなか名義で『コミックマーケット創世記 (朝日新書)』など
photo 筆谷芳行(ふでたに・よしゆき)漫画編集者。少年画報社取締役編集担当。コミックマーケット準備会共同代表(第3代)。明治大学経営学部卒業。少年画報社では、ヤングキングアワーズ編集長を始めに、ヤングキング・ヤングコミック編集長などを兼任。2021年秋、全ての雑誌編集長から退く。現在はアワーズで、ドリフターズ・ナポレオンなどを担当

鳥山明が『Dr.スランプ』を描いてきたときに確信したこと

――最初のテーマは、プロ漫画家さんとアマチュア漫画家さんの違いからいきたいと思います。霜月さんによれば、プロに対するアマチュア漫画家が定義され始めたのがコミケの始まる頃とのことですが、どのような経緯からだったのでしょうか。

霜月: アマチュア、今で言うところの同人作家という意味になりますが、昔は同人作家というのはいなかったわけです。要するに漫画を描くためにはプロになるしかなかった時代がありました。戦後になるとさまざまな漫画誌が誕生するわけですが、その一方で同人誌を出す動きもありました。

 ただ、今と違ってインターネットもなく連絡手段も限られていた時代ですから、地域単位で同好の士が集まるようなものでした。サークルの性質も、プロ漫画家志望の人たちが切磋琢磨する形で、それぞれの作品を同人誌に載せるといったものでした。こういったサークルが日本各地にありました。こうした作家さんたちは、プロにはまだなれていないので、アマチュア漫画家といえます。

 その後、さらに漫画雑誌が増えてくると『COM』(虫プロ商事)や『月刊漫画ガロ』(青林堂)といったように、同人の育成に貢献するような雑誌も現れます。漫画雑誌としてはいわゆるマイナー誌といった部類ではあるのですが、漫画連載のほかに同人サークル活動をやっている人たちが交流したり、メンバーを募集したりできる文通欄のようなコーナーがあるのが特徴でした。これによりアマチュア漫画家によるサークル活動がだんだん活発になっていったわけです。ただ、それらはあくまでプロになるための前段階としてのサークル活動という位置付けでした。

 ところが1960年代から70年代くらいになると、そういったプロになるための創作サークルとは別に、アマチュアのまま漫画を描き続けたっていいじゃないかという風潮が芽生えてきました。あくまでファン活動として、自分の好きなものを描き続けようとする動きですね。

 こうした動きが活発化する一方で、71年に『COM』が休刊になってしまい、大きな発表の場がなくなってしまいます。当時、僕は漫画の評論サークルをやっていたのですが、こうしたいろいろなサークルがみんなで集まって表現の場を作ろうと始めたのが「コミックマーケット」でした。それまでは出版社に原稿を持っていって、そこで編集者に認められなければ漫画を目にすることはできなかったわけですが、僕らとしてはそういう商業誌に載る以前に消えていった漫画を読みたいという思いがありました。

 こうして75年12月に第1回コミックマーケットを開催しました。ただし当時は今に比べてすごく規模が小さく、会期は1日だけ。参加者も約700人しかいませんでした。その後、自分も漫画を描いてみようという人たちが増えてだんだんと規模も大きくなっていきました。一方、出版社で漫画を作っている大半の人たちは同人誌なんか知らず、目にしても「なんじゃこりゃ」みたいなものでした。

鳥嶋: 同人誌の存在は知りませんでしたね。コミケが始まった75年の次の76年は、僕が集英社に入社した年でもあります。僕は会社に入るまで漫画をほとんど読んだことがなくて『少年ジャンプ』の存在を知らないで編集部に配属された人間です。ですから漫画を知らない人間が同人誌を知るはずがありません。本当に霜月さんが言う通りです。ただ、編集部の中には例えば早稲田の漫研出身の人などが数名いて、そういう人は縦のつながりで同人誌を一部、知っている人はいたみたいです。

 ただ、当時の『ジャンプ』編集部の雰囲気は体育会系で、こうした漫研出身者への評価も「ちゃんと本を読んできたの彼らは?」といった感じで、必ずしも高くはありませんでした。ですので霜月さんの言うように、同人誌のイメージは決して良くはなかったですね。

 『COM』という雑誌も知ってはいましたが、手塚治虫さんの『火の鳥』が載っている雑誌くらいの認識しかなくて、同人の交流欄の存在は「あったな」くらいの認識でちゃんと覚えていないわけですよね。僕が同人誌と向き合うきっかけとなったのが、83年の夏に『ドラゴンクエスト』の堀井雄二さんと一緒にコミケの取材に行ったことでした。

筆谷: その時、同人誌が置いてあるサークルスペースを歩かれたと思うのですが、鳥嶋さんの目から見て、一緒にやろうと思った描き手さんは、見つけられましたか。

鳥嶋: 実は見つけました。『ジャンプ』の僕の名刺を配りまくりましたし、取材費からいろんな同人誌を40〜50冊買って、それを誌面でプレゼントする企画もやりました。連載の可能性がある人に3人ぐらい声をかけて、実はその3人と打ち合わせも始めました。

 それなりに描ける人を選んだつもりだったのですが、全く駄目でした。同人でうまい人というのは、伝えたいとか描きたいとかいう気持ちはある一方で、やっぱり自分なりのプライドとか自負がある。

 一方で商業誌は、一人でも多くの人に届けることが前提なので、そうすると持ってきた作品に直しを入れていかないと『ジャンプ』に載らないんですよね。特に『ジャンプ』は『サンデー』『マガジン』と比べると読者層の年齢が低いので、小中学生にストレートに伝わるものじゃないとまずいと僕は考えていました。

 今ならもう少し賢く付き合えると思うのですが、僕のキャラクターもあるんですけど、割と厳しく駄目出しをするのでね(笑)。結局その3人とはうまくいきませんでした。

photo Dr.マシリト 最強漫画術』(集英社)

――『ジャンプ』でコミケの特集が組まれていたのはすごいですね。今の『ジャンプ』よりもコミケに近かったのかもしれない。鳥嶋さんだけが近かったのかもしれないですけど、そんな時代があったんですね。

鳥嶋: 一方で、取材に来て面白かったこともありました。『ジャンプ』編集部って、修学旅行などの見学コースに昔からなっていて、読者と触れ合える機会も少なくないんです。主に新入社員が読者の見学の相手をすることで、生の読者を知る機会になっています。ただ、コミケで出会えた人たちは、普段見学に来ている読者とは違う、大人の幅広い漫画ファンで、世の中を広く知れたという意味で非常に面白かったですね。

 商業誌は一人でも多くの人に届けることを意識しています。その一方で、たった一人でもいいから、自分がこう思っているということを伝えたい、反応してくれる人が欲しい。そんな場があるという点でも発見がありました。

霜月: まさしく自分たちがコミケを始めた当時の意識として、そういう場を提供したいという思いがありました。鳥嶋さんが言ったように、商業誌というのは最大多数に受ける作品でなければならないのに対して、同人の漫画というのは、読者がたった1人の作品であってもいいというところからスタートしています。

 それは言い換えると、1から100まで「全部自分の描きたいように描いた作品」とも言えます。知らない人が見たらイタズラ描きにしか見えないような作品であっても「これが描きたいものの全部なんだ」っていうものを作品の形にして、それをとにかく見てもらう。これにもし一人でも読者がいれば、それはコミュニケーションとして成立するんじゃないかというわけです。同人誌というのは、そういうところを立脚点にして始まるものといえます。

 このように、商業誌の作品とは対極のところから始まるものとして漫画をスタートしようというのが、コミケを立ち上げた最初の動機でもありました。

筆谷: 漫画編集者がコミケをスカウトの場に昔からしていて、今日も何十人の漫画編集者が名刺を配り歩いていると思います。その中で、声を掛けるんだったら「最後まで責任持って育ててもらいたい」という思いもありますね。もちろん作家さんが編集から逃げ出す例もあるんですけど、漫画編集者が作家に対して「代わりはいくらでもいる」という言葉がものすごく印象に残っているんですよ。諦めたら「また次のやつに声をかければいいや」と考えている編集者も少なくありません。

 特に最近だと電子書籍系の編集さんが手当たり次第に名刺を配っていて、本当にこの人の同人誌を読んでいて、本当に好きなのかも分からないと思うこともあります。「とりあえず売れているから声を掛けよう」「一人でも多く連絡先交換できればそれだけチャンスを広げられる」と思っている編集者が増えているように思います。

鳥嶋: 実は僕も、筆谷さんがおっしゃったような「ちゃんと責任を持って最後まで面倒を見ない」、そういうイージーな編集者の1人でした。その後「僕はこういう人たちと合わないんだな」と思い、起用しようとはしなかったんです。僕は漫画で飯を食っていきたい人とだけ付き合うようになって、最後まで責任を持ってマンツーマンでやるというスタンスに切り替えていきました。

 ただ、コミケが始まった75年以降ですが、漫画誌全体で、ヒットする漫画、読者が反応する漫画が、ある時期から変わり始めるんですよね。僕がその時代の流れを感じたのは、77年に『週刊少年チャンピオン』で鴨川つばめさんの『マカロニほうれん荘』が出てきて、同じく77年に『ジャンプ』で江口寿史さんの『すすめ!!パイレーツ』が出てきたときです。

 商業誌でもある種のパロディーをやるギャグ漫画が出てきて、読者の反響も非常に大きかったのです。実はその辺、僕も見ていて面白いという感覚を持っていて、だから鳥山明さんが『Dr.スランプ』を描いてきたときに「これは連載できる」と思ったんです。

 商業誌もある部分で閉じてはいたけど、読者の思考の流れによって変わり始めた時期がその辺りにもあると思うんですよ。

筆谷: そうですね。70年代から80年代頭にかけて『ジャンプ』『マガジン』『サンデー』『チャンピオン』といった少年漫画雑誌が台頭してきて、その後『ヤングジャンプ』『ヤングマガジン』と続きます。漫画雑誌の数そのものもだんだん増えてきて、いろんな作家さんを吸収できるだけ商業誌の幅が広がったと思います。

 『ジャンプ』みたいに100万人の読者はつかめないものの、1万人や3万人の熱い読者をつかめる作品もどんどん出てきました。そういうところに同人誌をやっている作家さんが一歩ずつ踏み出してきて、より多くの読者を作って広げてきたからなんだと思います。メジャーが正しいというのは商業誌では絶対的なものですけど、マイナーも正しいとずっと思っています。

鳥嶋: ちょうどその頃、『ジャンプ』で自分が担当している作品に、大人が書いた評論的な応援のハガキが届いたりするようになりました。僕らは読者の存在を、はがきのアンケートデータによって数字を含めて見ていますけど、商業誌でこうしたものが出てくるようになった変化に、「これが時代なんだな」と編集部員として感じていました。

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