マーケティング・シンカ論

一見素晴らしい「1to1コミュニケーション」施策の落とし穴 マーケティングの残念な事例LTVの罠

» 2024年03月28日 08時00分 公開
[垣内勇威ITmedia]

この記事は、垣内勇威氏の著書『LTV(ライフタイムバリュー)の罠』(日経BP、2023年)に、編集を加えて転載したものです(無断転載禁止)。なお、文中の内容・肩書などは全て出版当時のものです。

 1to1コミュニケーションとは、顧客データを使って、一人一人のお客さまに最適化したコミュニケーションを取ろうとする施策です。一人一人のお客さまと、過去にわたって複数回の接点があれば、それらを基に接客方法をブラッシュアップできるはずです。こうして長くお客さまとお付き合いして、LTV(ライフタイムバリュー、顧客生涯価値)を向上させるという発想です。この1to1コミュニケーションも失敗事例の多い分野です。

1to1コミュニケーションは失敗事例の多い分野だ(写真はイメージ、提供:ゲッティイメージズ、以下同)

 あるB2B企業では、過去に取引履歴のある顧客リストを大量に保有していました。最近、電話やメールで顧客に営業する「インサイドセールスチーム」を発足したものの、顧客リストを上から順に全て電話していくのはとても非効率に思えます。

 そこでAIを使って、商談や受注につながりやすい順番に、顧客リストを並び替えるというトライアルを始めました。商談・受注データを正解データとして、過去の取引データとWebサイト閲覧データをインプットし、顧客リストにスコアを付けていくというシンプルな仕掛けです。AIを使った取り組みということで、経営陣をはじめ、全社の期待を集めたプロジェクトにもなりました。

 しかし結果は極めて残念なものでした。

AIよりも“勘ピューター”? 現場で起きたこと

 AIによって出力された顧客リストは、過去の受注金額が大きいか、企業規模が大きい会社を、ただ上から順番に並べたものと大差がなかったのです。何度か調整を加えても有益なリストを得ることはできませんでした。これならAIなど使わなくても、手動で数時間あれば並び替えができてしまいます。

 さらに言うならば、このリストを使うくらいなら、架電担当者がWebサイトの閲覧履歴などを見て顧客の状況を想像し、どこに電話するかを選んだほうが商談につながります。AIが出力した納得感のない顧客リストでは、架電担当者も電話をかけるモチベーションが上がりません。電話する必然性を見いだせない顧客リストが提示されれば、どのようにコールしようかと、ためらいが生じます。

 電話と電話の間に生じたわずかなためらいの時間によって、架電回数は伸び悩み、商談数の減少を招いたのです。この失敗の原因は、やはりデータの不足です。過去の取引履歴を営業担当者がしっかりデータ入力していないため、企業名と受注金額くらいしか分からない顧客リストが散見されました。また営業担当者が接触した時と、偶然Webサイトを閲覧した時くらいしか顧客接点がないため、顧客の状況をリアルタイムに把握できるデータがありません。

データの質と量が不足していれば、勘の方がまだマシになってしまう

 少し専門的になりますが、AIに学習させたのが単純な数字データだけだったことも精度が出ない原因でした。可能ならば、過去の取引履歴などの自然言語データも取り込むべきです。しかし単純な数字データよりも扱いが難しいため、実験段階では対象外としていました。せっかくAIを使うなら、できるだけ大きなデータを用いなければなりません。

 このようなターゲティングの失敗例は、B2Bに限らず、B2Cでもよくあります。例えばECサイトで、RFM分析を行い、優先度の高い顧客にクーポンを付与するようなシーンです。RFM分析とは、Recency(最近の購入日)、Frequency(購入頻度)、Monetary(購入金額)の3つの指標で顧客をランク付けする有名な手法です。RFM分析も、前述したB2B企業の事例と同じように、誰でも思い付く当たり前の結果に陥りがちです。例えば、「去年はたくさん買っていたが、今年は全然買っていない顧客にクーポンを送ろう」くらいの施策しか出てきません。

 データの量と質が不足した環境では、人間の経験論に勝るターゲティングは期待できないのです。10年以上前、ある営業責任者が「コンピュータより、“勘ピューター”のほうが信頼できるんだよ」とオヤジギャグを言い放っていました。確かに全社一丸となってデータ収集にコミットする気概がないなら、それはもう「データの活用」ではなく「勘ピューターの活用」を中期経営計画に載せたほうがマシかもしれません。

著者プロフィール:垣内勇威(かきうち・ゆうい) 

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WACUL 代表取締役

東京大学卒。ビービットから2013年にWACUL入社。改善提案から効果検証までマーケティングのPDCAをサポートするツール「AIアナリスト」を立ち上げる。19年に産学連携型の研究所「WACULテクノロジー&マーケティングラボ」を設立。研究所所長および取締役CIO(Chief Incubation Officer)として新規事業や新機能の企画・開発およびDXコンサルティング、大企業とのPoC(概念実証)など、社内外問わず長期目線での事業開発の責任者を務めてきた。22年5月に同社代表取締役に就任。著書に『デジタルマーケティングの定石 なぜマーケターは「成果の出ない施策」を繰り返すのか?』(日本実業出版社)など。

LTV(ライフタイムバリュー)の罠

自社の製品やブランドを末永く愛してもらい、顧客と良好かつ継続的な関係を築いて利益を最大限に高めたいが、有効な手だてが見つけられない企業は多い。実際「LTV(ライフタイムバリュー=顧客生涯価値)」という言葉や概念は浸透しているが、正しくマーケティング戦略に組み入れ、機能させている企業は想像以上に少ない。本書はLTV向上施策において、顧客が逃げ出してしまう「4つのボトルネック=MAST」を浮き彫りにし、企業と顧客が向き合う接点ごとに有効な対処法を紹介。マーケティングや営業、顧客サービス部門の担当者がすぐに実践できるよう、多彩な事例を示しながら分かりやすく解説する。真に顧客から「愛される企業・ブランド・製品」を目指す企業担当者にとって必読の1冊。

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