東海道新幹線の「品川駅折り返し列車」構想は、どうなった?杉山淳一の「週刊鉄道経済」(3/5 ページ)

» 2024年05月24日 06時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

JR東海の構想に、JR東日本が激怒

 東海道新幹線の品川駅付近は高架線だったから、これを地上に降ろし、プラットホームは2面4線とする。さらに7本分の留置線を設置する。線路2本だったところにこれだけの設備をつくるためには土地が必要だ。しかし、新幹線の品川駅の車両基地は大井埠頭の車両基地に統合され、貨物駅とともに国鉄清算事業団の保有となって売却予定となっていた。そこで、JR東日本が寝台特急の客車用に使う品川運転所の24ヘクタールのうち、約6ヘクタールの土地を購入する算段だった。

 これに対してJR東日本が反発する。理由は2つ。JR東海がJR東日本に打診せずに、運輸省(当時)に土地買収の意向を伝えたこと。そして買収価格が国鉄分割民営化当時の簿価だったことだ。昔のことだが、これはJR東海が悪い。話の筋が違うし、買収価格が安い。JR東海の「国鉄分割民営化時の領地の区分を変えるだけだから当時の価格にしたい」に対し、JR東日本は「人の土地に勝手に駅をつくるとブチ上げるのはどういうことか」「国の介入を求めるのは民営化の趣旨に反する」「当社には余分な土地などない」などと反発した。

品川駅の航空写真。左が1990年頃、右が2019年頃(いずれも地理院地図航空写真より)

 1990年当時はブルートレインこと東海道本線の寝台特急が勢いを保っていた。紀伊勝浦行きの「紀伊」が利用者減少で廃止され、西鹿児島(現・鹿児島中央)行きの「富士」は宮崎行きに短縮されたとはいえ、博多行きの「あさかぜ」、出雲市行きの「出雲」、長崎・佐世保行き「さくら」、高松行き「瀬戸」、西鹿児島行き「はやぶさ」、熊本・長崎行き「みずほ」が走っていた。

 JR東日本は「好景気で地価が上がっている。民間企業の土地を買うなら時価が当然」と主張する。当時、すでに田町車両センターの移転と再開発は検討されていたと思う。なぜなら、1991年に東北新幹線の上野〜東京間が開業したとき、高架区間のさらに上へ在来線を敷設する準備ができていたからだ。これが現在の上野東京ラインであり、のちに田町車両センターの移転と高輪ゲートウェイ再開発につながる。1991年に準備工事が終っていたからには、その数年前から設計に着手していたはずだ。

 さらに付け加えるともう1つある。JR東海の副社長、葛西敬之氏と、JR東日本の社長、住田正二氏の仲が悪かったこと。そんなことか、と思うけれども、国鉄分割民営化ではともに尽力しただけに、仲を違えば溝が深い。

 1996年8月31日の朝日新聞夕刊で、JR東日本顧問となっていた住田氏がエピソードを披露している。

 東海の現社長の葛西敬之さんは、初めは私に低姿勢でしたが、だんだん態度が変わりました。いつだったか、葛西さんが突然、当社の役員大部屋に「や、どうも」という感じで入ってきた。昔の仲間を訪ねたつもりでしょうが、非常識です。私の席に来たから「おい、よその会社の社長に面会するときは受付を通すなりしろよ」と、退室してもらいました。その後、東海が熱心だったリニアモーターカーについて、私が「民間がやる話じゃない」と批判したりして、疎遠になりました。

(中略)

 東海とのいざこざは兄弟げんかとか言われたが、先方の真意は分かりません。健全な競争意識と、自分さえよければというのは違います。新幹線の増発を狙う東海は一九九〇年、新品川駅構想を勝手にぶち上げた。結局、うちの頭越しに運輸省に働きかけたことをわびたが、すべては当時常務から副社長になった葛西さんの知恵でしょう。

(朝日新聞夕刊経済特集 住田正二・JR東日本顧問 官の論理、民の知恵:6(ビジネス戦記)より)

 土地問題は上記のような対立構造がメディアで話題となったけれども、結局、運輸省の中村徹運輸事務次官の仲介で、JR東海社長の須田寛氏、JR東日本の住田正二氏が会談し、須田社長の謝罪とJR東海の当初案撤回で決着した。中日新聞1992年5月11日朝刊によると、JR東日本としては、いつまでも固辞していると分割民営化の批判が高まり、運輸省との関係も悪化すると考えたようだ。

 その後、JR東海、JR東日本、JR貨物の3社と国鉄清算事業団の実務者レベルで構成する「東海道新幹線輸送力に関する検討委員会」が発足し、実務者レベルの協議が行われた。

 JR東海は約6.2ヘクタールを購入するつもりだったが、協議の結果、約2.6ヘクタールに縮小された。これは国鉄跡地の再開発を進めていた東京都と港区が留置線の残置に反対していること、JR東海の資金負担を軽くするためである。土地は、新幹線車両基地の用地の一部を国鉄清算事業団から買い戻すほか、JR東日本とJR貨物から購入する。またJR東日本の土地の一部を賃借する。買い取り価格については、JR東海が簿価前提で1000億円以内にしたいと考えていたが、バブル景気の崩壊が幸いして、約300億円に収まった。

 用地が減ったぶん、駅の規模も小さくなった。2面4線は維持したものの、プラットホームは細く付帯設備はほとんどなし。留置線は7本の予定が3本になった。こうして東海道新幹線の品川駅は1997年5月26日に着工し、2003年9月15日に完成した。

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