さて、オートクチュールの時代は、顧客の貴婦人がサロンに座り、番号を持ったモデルが登場。顧客は、それを見ながら、どの番号の服をオーダーしようかと見定めるイベントでした。
それが60年代に入ってプレタポルテが登場し、売る対象が大きく広がり、バイヤーに見せるイベントへとランウェイショーの規模が拡大していきます。パリだけでなく、ミラノ、ロンドンへも広がり3大、さらにはニューヨークも加えて4大コレクションと日本では呼ばれるようになります。
日本からもパリコレに参加するデザイナーが続々と登場します。
高田賢三は、1970年に自身のブランド「ジャングル・ジャップ(後のケンゾー)」を設立し、その年にパリコレに参加しました。1993年にLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループの傘下に入り、その後1999年までデザイナーを務め、のちにインテリアライフスタイルブランドなども立ち上げました。
「ケンゾー」には期しくも同じ日本人で裏原系の代表格「ア・ベイシング・エイプ」を立ち上げたNIGOが就いているのも不思議な縁と言えるかもしれません。
三宅一生は1973年にパリコレデビューを果たし、素材に重点を置いたミニマルで実験的なデザイン、プリーツ加工の技術を用いた「プリーツプリーズ」が代表作となったことは、皆さんご存じの通りです。
また60年代には「ハナエモリ」の既製服ブランドで成功を収めていた森英恵が、1965年にニューヨークでショーを開催し、アメリカ市場に進出。1977年には日本人として初めてフランス・オートクチュール組合に認められ、プレタポルテのパリコレではなく、パリ・オートクチュールコレクションでデビューを果たしました。
続いて1981年には山本耀司「ヨウジヤマモト」と川久保玲「コム・デ・ギャルソン」の2人もパリコレに参加。
ヨウジヤマモトは、黒を基調とした非対称で前衛的なデザインがパリのファッション界に衝撃を与えましたし、コム・デ・ギャルソンは、解体主義的で挑発的なデザイン、破れた布地や非対称のフォルムなど既存の美の概念を覆すコンセプトで「黒の衝撃」と呼ばれ、従来のファッションに慣れた多くの批評家や観客からは「貧乏臭い」「葬式のよう」と批判されましたが、一部のファッション関係者や前衛的な思想を持つ人々からは、「これまでにない革新」として熱狂的な支持を受けました。
ヨウジヤマモトも含めて黒の衝撃に含むという見方もあり、三宅一生も含めて、日本の美意識を背景としたコレクションが西洋的なるものにインパクトを与え、後進への道を切り開く契機となったことだけは間違いないでしょう。
ファミマ「初サングラス」が大ヒット 3週間で完売した理由
「男性用のレース下着」なぜ人気なのか ワコールが販売して分かったこと
「ローソンの偏愛アイテム」まさかの人気、カタカナTシャツも売れてます
「寄せて上げて」はもう古い? ユニクロやファミマが変える“下着の常識”
身長155センチ以下! 小柄女性向けのブランドが、「月商1億円」になった秘密Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング